***



 男――末永、崇之は駅からそう遠くはないボロアパートに住んでいた。隣には大きなマンションが建っている。最近はこの町にも以前より人が増え、確か今年の年末頃には崇之の住むアパートも打ち壊され新しいマンションに建て替えられる予定であった。崇之は、先日大家から電話で伝えられた内容を思い出しながら、ところどころペンキの剥げた階段を上る。
 外見に反して住み心地は、大して悪くはなかった――
 と、言っても二年程前に越してきたばかりであったから、愛着があったわけではないが。
(それに、そろそろ潮時だしな)
 肩を竦める。そもそもこんなボロアパートに住まずとも、高級マンションに――その気になれば一戸建てを持てる程度には懐は豊かである。にもかかわらず、こういったボロアパートばかりを選ぶのは、「仕事」が済んだら速やかに引き払ってしまうことが前提であるからだ。
(今度はどこへ行こうか)
 関西か、東海か――
 関東にはしばらく帰って来ることができないだろう。こちらの人間は他人に対する興味が恐ろしく薄い。隣人の不幸でさえ、どこか遠いものとして見ている。個人個人の繋がりが希薄で、それは崇之の仕事をやりやすくしていたのだが、その為に調子に乗って荒稼ぎをしてしまったのが拙かった。
 崇之はもう数年も前から女を食い物にして生きている。ただ、結婚詐欺など大がかりな詐欺などを毎回行うわけではなく、普段は適度に貢がせたり金を借りたり、騙したり、と細々としたやり口で稼いでいた。今ももう、一人の女に目星をつけている。その女で引っ越し代くらいは稼いでいこう、と頭の中でこれからの行動をシュミレートしながら、部屋のドアの前へと立った。

 びょうっ

「わっ、何だ!?」

 ドアノブに手をかけようとした瞬間に、突風が視界を塞ぐ。思わず目を瞑って――再び眸を開ければ、何事もなかったかのように、目を瞑る前と同じ光景が広がるのみである。あれだけの風であったのに、外に積まれている古紙の一枚も捲れていないとはどういうことだろう、と不思議に思いながらドアへと視線を戻した崇之は、「あれ、」と首を傾げた。
 ポストに、包みが入れられている。
 宅配便――ではないだろう。崇之のこのアパートの住所は、これまで付き合ってきたどの女にも教えていない。新聞も取ってはいない。ポストに入れられるものといえば、チラシくらいだ。
 崇之は、ポストから覗くその紙包みを引っ張った。消印は無い。代わりに、白と黒の狐が太極を模ったような印が押されるのみである。流麗ではあるが、どこか不遜なように思える字で大きく「末永崇之様」と自分の名が書かれているから、間違いだというわけでもなさそうである。
 気味悪く思いながら、崇之は袋を破った。中身を取り出せば、血のように赤い装丁をしたハードカバーの本が一冊。金で「道成寺」という文字が捺されていた。

「道成寺ぃ?」

 ――最近の寺は、凝った宣伝をするもんだな。
 鼻で笑って、開くことすらせずに積まれている古紙の上に本を投げ捨てる。崇之が、ガチャガチャとドアノブを回して部屋の中へと姿を消した後――外の廊下には変わらず隣人や崇之の出した古紙や、粗大ゴミなどが置かれていたが崇之が部屋へと入る前とはただ一つ違っていたことが、ある。
 崇之が確かに放ったはずの、あの紅い本。道成寺は、不思議なことに古紙の束の上から綺麗に姿を消していた。そうして、古紙の上にはまるで初めから何も置かれていなかったかのように、ただ、埃のみが、積っていたのであった。



 ***



「安珍様、安珍様、何処に居られます。安珍様」

 女は男を探していた。
 暗い闇のなかをもうずっとそうして彷徨っている。約束した男だ。奥州、白河からやってきた僧だった。熊野へ詣でるのが宿願であり、それを終えたら必ず契りを交わしてくれる、と確かに約束をしたのだ。

「何処に、何処に」

 暗闇を見渡す女の眸は、人間のものとは思えぬ程に妖しい光を放っている。まるで炎のような煌きと熱を帯びた瞳が辺りをねめつければ、ぽつん、と遠くに明かりが見えた。
 青白い、明かりだ。
 ――そうだ。その光の方向で良い。お前の求める男がいる。
 声が聞こえた。冷たさと傲慢さを伴ったそれは、しかし女には慈愛に満ち満ちた声に聞こえる。
(これが観音様の御導きだろうか)
 女は薄らと微笑んで、急ぎ足で光へと向かう。青白い光が、近付くにつれ女の姿が露になる。
 ――その姿、鬼女の如し。
 光沢を持った滑らかな黒髪が蛇体のようにうねる。頬には二筋の血の涙の痕が残り、眦は鋭く吊り上がっている。唇からは赤々とした火焔の吐息が零れる。その姿は人ではない。
 けれど女は自身の姿には気づいていないようで、爛々と光る金色の瞳をすう、と細め喉を鳴らして笑った。笑い声が零れるたびに、口許では火花がぱちり、ぱちりと散る。

「嗚呼、安珍様。ようやく、」

 霞がかった視界の先に、男の背が見える。僧ではない。有髪の、男の背中を、けれど女は「安珍」のものであると信じて疑わなかった。何故なら――自分を導いた青白い光は、男から放たれているのだから。
 男はきょろきょろと辺りを見回して、何かを探しているようであった。或いは、誰かを、か――
(ああ、安珍様)
 私を探してくれているのだ。女は悦びに、胸を震わせながら男の背中へと近づいてゆく。一歩、二歩、三歩。女が足を踏み出すたびに、その足もとから霧が生じ、辺りを濃く包んでゆく。最初はどこか、別の場所――白河でも真砂でもない、硬質な地面、天を衝くようなそれでいて、四角く窮屈そうである邸の建った、女には見慣れぬものであった灰色の風景が、霧に包まれる内にその景色を変えてゆく。
 見慣れた、屋根の低い平屋。青く広がった空、伸び伸びと天に向かって枝を広げる、木々。道行く小僧に、商人風の男。まさしくそこは、女のよく知る世界であった。
(やっと、戻って来ることができた)
 女はその瞳から一滴、涙を零した。はらり、と袖を濡らす。暗闇を彷徨っていた、自分をこうして導いてくれた愛しい男の背中はすぐ目の前にある。

「今度こそ、ああ、安珍様」

 ――清と、契りを結んでくださいませ。長年の宿願。約束を、果たしてくださいませ。
 男は、振り返った――



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