***


 ――何だ。
 崇之は、眸を幾度か瞬かせた。先程、こちらでの「最後の仕事」を終える為に女に連絡をして、そうしていつもの待ち合わせ場所であるビルが立ち並ぶ駅前で女の姿を探していたはずだった。
 不意に、どこからか霧のようなものが立ち込めて視界が白く染まったかと思えば薄らとかかった霧の向こうの景色が全く見覚えのないものになっている。

「何だ?」

 視覚がそれを認識するとともに、次第に霧は晴れてゆく。灰色の空、コンクリートビル、アスファルト、信号待ちをする車に、他人になど興味がないという風に無表情で歩いてゆく人々――灰色の風景は、がらりと色を変えていた。
 空が、広い。真っ青に広がる空へと白い雲が浮かぶ。都会の街中では見ることのできぬ空だ。高い建物がない。平屋ばかりで、それも、古めかしい日本造りのものばかりである。木々は自由に枝を伸ばし、往来を行く人の姿もどこかのんびりとして――その服装は時代劇にでも出てきそうであった。
(ど、どうなってんだ)
 崇之は自らの頬を抓ってみる。もしや寝惚けているのではないか、と思ったのだが、痛い。目を擦ってみても景色は変わらない。信じ難いことではあるが、夢ではない、らしい。

「もし、そこの御方。安珍様」

 ――安珍?
 とん、と肩を叩かれて崇之は振り返った。安珍、というのは聞き覚えのない名ではあったが、肩を叩かれた以上は自分が呼ばれたのだろう、と。
 声からすると、女だ。
 ――男よりかはずっといい。
 「職業柄」そんな風に思いながら振り返った崇之はすぐに後悔することになった。女――確かに、女であるのだろう。その身を包む着物は艶やかな緋色をしていて、確かに女物である。が、その容貌。


 女の長い黒髪は、妖しいまでの光沢を持ち、まるで蛇の如くにうねっている。じい、と崇之の顔を覗き込む瞳は金色に光って、双眸からは一筋ずつ血の涙が流れ痕を残していた。赤い唇からは鋭い牙が覗く。「安珍様、」と、声を出すたびに火花がぱちり、と弾けるその様子は人間の女のものではなかった。

「ひっ、」

 崇之は喉の奥から悲鳴を上げて、後ずさる。女はそれを追うように、一歩崇之の方へと近づいた。崇之は顔の前で手を振ると、必死に「近寄るな!違う、俺は、安珍じゃねえっ」そう、叫んだ。

「安珍様ではない?」
「そ、そうだ」

 首を縦に振りながら、崇之は猶も後ずさる。女は首を傾げていたが、再び崇之の全身をじい、とその蛇のような瞳で眺めると「何故、」そう、唇から恨みの言葉を吐きだした。氷水でも浴びせられたかのような、痛みすら感じる冷えた声が唇から零れる。

「何故私を謀られます、安珍様」
「だから、俺は、」
「嗚呼、幾度私を謀れば貴方様は御気が済むのか」

 言ううちに、女の姿は更に変貌する。憤慨するように、皺の刻まれた眉間を中心に皮膚が色を変えてゆく。光沢を持つ髪のように、青光りする鱗が皮膚を覆って行く様を見て、崇之は慌てて走り出した。
(何が、起こってんだっ)
 煩わしくまとまりつく上着を脱ぎ捨てて、崇之は転げるように走る。少し後ろからは人の悲鳴のようなものが聞こえた。――化け物が、追ってきているのだろう。しばらく走ると、目の前に大きな川が見える。そこに、何艘か舟が繋がれ、人を渡す船頭の姿が見えた。
 崇之は舟の中へと飛び込み、船頭へ叫ぶ。

「早く、渡してくれ!化け物に追われているんだ!」

 船頭たちは呆気にとられたような顔をしていたが、視線を崇之の後方へと向け、事態を理解したようだった。忙しなく岸を離れる舟に、崇之は一先ずほっとする。

「兄さん、アンタ何やったんだ」
「俺ァ何もしてねえよ」

 漕ぐ手を止めずに、問う船頭に崇之は「俺の方が理由を知りたい」と思いながら返す。もう一人の船頭にも、あの女は渡さないでくれと頼んだから、恐らく女は追ってこないだろう。
 岸が近い――
 舟を降りる崇之に、何故か船頭は渡し賃を求めようとはしなかった。求められても、この奇妙な場所における通貨を崇之は持っていなかったのだが。怪訝な顔をする崇之に、船頭――額に布を巻いた、男だ。短い硬質の髪をつんつんと、立たせたどこか冷たい顔立ちをしている――はその唇の端にほんのりと笑みを含ませた。

「この先に、寺がある。助かりたいのなら、そこへ行くといい」

 ――助かりたい?助かった、ではなく?
 崇之は川へと視線を移し、ぎょっとした。
 まだその姿は遠い、が、舟ではない何かが川の流れを掻き分けるようにして、渡ってくる姿が見えたのだ。
 崇之は、再び走り出した。



 ***


(さっきの奴が言ってた寺ってのは、ここか)
 崇之は息を切らせながら、ずるずると門の傍へとしゃがみ込んだ。急な激しい運動と、恐怖とで心臓はばくばくと激しく脈打っている。立たねば、と思ったが足に力が入らない。
 「誰か、いないか」そう、声だけでも出そうとした瞬間に、座りこんだ崇之の頭上にふ、と影が出来た。
 慌てて、崇之は顔を上げる。



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