「・・・架空だよ」

 混乱する私の、胸の内に気付いたかのように。名島君の隣まで下がっていた岡山君はぽそりと呟いた。

「つまり、瑠璃也の言う通りこれが天探女だろうが天邪鬼だろうが、どっちだって同じなんだ。これが何か、という純粋な疑問に対する答えは、一つしかない」
「一つ?」
「さっき、瑠璃也が思念って言葉を使ったよね?神や妖怪が存在するか、それは僕にも判らないことだけど、目の前にいるこれはそれらの形を取った思念でしかない」
「思念・・・」

 ならばこれは、人の想いが形になったものだというのだろうか。岡山君は、「ちょっと判り難かったかな。偉そうに説明しておいてなんだけど、僕にも本当はよく判らないんだ。今のは叔父さんの受け売りで、」と恥ずかしそうに頬を掻いている。
 もしかたら、岡山君の叔父さんに訊けばもっと具体的なことが判るのかもしれない――
 この状況を無事切り抜けることができたらの、話だけれど。

「太郎ちゃん、そういう話は後にしようぜ」

 一枚、二枚、三枚。
 天探女が奇妙な叫び声を上げて、髪を振り乱すたびに戸口の周りに貼っていた札が剥がれ、千切れる。じりじりと、確実に近づいてくる天探女に、名島君は顔に焦燥を浮かべながらポケットの中からライターを取り出し、傍らにあったスプレー缶を鷲掴みにした。
 スプレーを噴射させて、ライターに指をかける。次にやることと言えば一つだ。

「ま、待って!名島君!」

 今にもライターの火を灯そうとしていた、名島君を私が制止したのは、何もそれが危険な行為だからだというわけではない。名島君や岡山君のようにその「思念」への対抗手段を知らない私は当事者であるというのに、まるで他人事のように後ろで事の成り行きを見守っていたのだが、だからこそ――気付いたことがあった。
 私のすぐ近く。斜め横に、大きな姿見がある。
 名島君や岡山君、そして天探女の姿を映したその姿見――鏡。
 鏡に映った天邪鬼の姿に、私は気付いた。
 目の前にいるのは真っ白な髪を振り乱す天探女。けれど、鏡に映ったそれの姿は目に見えるそれとは随分とかけ離れている。
 鏡に映ったそれは、小さな子供だった。寂しそうな表情は、絵本の表紙に描かれていた天邪鬼と同じものだ。人の心を読むのだ、と、名島君は言ったから、もしかしたらこれも偽りなのかもしれない。けれど、私は鏡へと手を伸ばした。すう、と鏡の中から小さな手が躊躇いがちに伸ばされる。

「小早川さん!」

 唖然としたように――私と同じように鏡に気付いて動きを止めていた名島君は、私の動きに気付いて慌てて制止をしたけれど、私はその小さな手を思い切って掴んだ。

 ――何も、起きない。

「おいで、」

 鏡の中から伸ばされた手を、ぐい、と引く。なんて非、現実的な行為だろう。思いながらも、私はもう驚きはしなかった。
(何だろう、この、感覚は)
 慣れてしまった、というのとはまた違う。そんなに早く慣れるはずもなかった。もしかしたら、名島君と岡山君が、当たり前のようにこの光景に馴染んでいるから、思考が麻痺してしまったのかもしれない。ただ、この決断だけは、
(絆されたわけでも、麻痺したわけでもないと、思う)
 ひんやりと冷たい、骨と皮ばかりの子供の手。
 これを名島君と岡山君は、人の想いだという。
(それなら、この本の持ち主は一体何を想っていたのか)
 痩せたちっぽけな天邪鬼。悪戯好きで、捻くれ者の天邪鬼に、どんな想いを込めたというのだろう。

「寂しい?悲しい?」

 ――瓜子姫が羨ましかった?人に、構って欲しかった?
 視界の端で、名島君が驚いたように眸を大きくしたのが判った。自分でも、こんな自分をおかしいと思う。もしかしたら、私の考えていることは全くの見当違いかもしれない。
(よくある手、だったりして)
 だけど、私は。
 何故か本の表紙のその隅にぽつりと描かれた天邪鬼の顔が頭を過ったのだ。

「おいで、天邪鬼」

 天邪鬼は顔を歪めて――けれど、握る手に力を込めた。

「うりこひめ、」
「私は、瓜子姫じゃないよ」





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