(昨日のあれ、何だったのかな)
 夢だ、と、思う。私は今までの生活で、あんな現実に遭遇したことなどない。けれど、爛々と光る大きな瞳。生気がすべてそこに集められたかのような瞳は、酷く現実味があった。

「小早川さん、もう授業終わってるけど」

 声をかけられて、私はハっと我に返る。
 すでに大部分の学生は席を立っていて、代わりに次の授業の学生がちらほらと入り始めている。

「名島、くん、」

 視線を声の方へと動かせば、名島君が心配そうに覗き込んでいる。入口の方では、岡山君が「瑠璃也、何してんの?早く行こうぜ」と呼んでいたけれど、名島君はそちらを振り返って「悪い、ちょっと待ってて」とだけ言うともう一度私の方へと向き直った。

「大丈夫?どこか、具合でも悪い?それとも、気分が悪いとか、」
「あ、ううん。大丈夫」

 私は、名島君が私の様子を気にかけてくれていたことに驚きながら、慌てて返す。返した後で、昨日の帰り際に名島君が言った――「何か変わったことがあったら、すぐに言って」という台詞を思い出して、思わず昨日の夢の話をしそうになった私は喉まで出かかった声を飲み込んだ。
(いくら心配してくれたからって、)
 急にこんな話をされても、名島君は困るだけだろう。こんな馬鹿げた話。そもそも私自身、夢なのか何なのか判っていないのだ。何と無く、名島君なら笑わずに聞いてくれるんじゃないかとも思ったけれど、私は小さく首を横に振った。
 名島君は「そう、それなら良かった」と少しだけほっとしたような、けれど他にも何か言いたげな表情で頷く。

「じゃあ、俺はこれからバイトだから。小早川さんは午後も授業あるの?」
「うん、私は4限まで」
「そっか。太郎も4限までだって言ってたから、もしも気分悪いようだったら太郎に送ってもらいなよ」
「あ、有難う」

 ――優しい。
 少しだけ笑うと、名島君は教室の入り口で待っている岡山君の方へと駆け寄って何か一言二言、名島君が口にすると、岡山君はちらり、と私の方を見て頷く。多分、私のことを気にかけてくれてるんだろう。体の具合が悪いわけではないので、恥ずかしいような申し訳ないような気分になりながら、私は教科書をバッグの中へ詰めると席を立ったのだった。

 4限が終わった後、エントランスホールへと向かえば、岡山君が柱に背を預けて腕時計とこちら側と、交互に視線を動かしていた。誰か待っているのだろうか。私が声をかけるよりも早く、岡山君は私の姿に気づくと「あ、小早川さん!」と片手を上げた。

「どうしたの?」
「良かった。もう帰っちゃったのかと思ったよ」
「待っててくれたの?」
「瑠璃也に頼まれたんだ。具合、悪そうだからって」
「ち、違うの!具合が悪いんじゃなくてね、」

 ――ああ、やっぱり岡山君も私の具合が悪いんだと思ってるんだ。
 私は慌てて否定する。

「昨日、変な夢を見たから寝不足で・・・」
「変な夢?」
「うん。多分本を読みながら寝ちゃったからだと思うんだけど、天邪鬼が」
「天邪鬼、ね」

 あれが天邪鬼かどうか、確かなところは判らなかったのだけれど。適当に、なるべく大げさになりすぎないように説明をする、私の話を岡山君は真面目な顔をして聞いてくれた。
 ・・・・・・なんだか、すごく申し訳ない気分だ。もしかしたら夢かもしれないのに。
 岡山君は一通り話を聞き終えると、

「そうだ、うちの店に来ない?」
「岡山くんの店?」
「正確には、僕の叔父さんがやってる店なんだけど。安眠香とか、破魔香とか、いろいろ置いてあるから。結構効くって評判なんだよ。お香とか苦手?」
「ううん」

 名島君といい、岡山君といい、すごく優しい。
 申し出に私は慌てて首を左右に振る。今は少しでも安心できる材料が欲しかった。例え夢だったにしても、安眠できるならそれに越したことはない。
 岡山君についていく。キャンパスのある駅から、二駅――名島君のバイト先と同じ、最寄駅だ。見たことのある道、覚えのある風景。それもそのはずで、商店街の大通から外れたその道は、つい昨日通ったばかりだった。

「ねえ、この道って、」

 ――もしかして、岡山君の叔父さんって、名島君のバイト先の店長さん?
 訊こうとしたら、隣を歩いていた岡山君が急に私の腕を引いた。ぐい、と、強い力で引かれて少しだけ、痛い。「わっ、」と思わず声を上げる私に、岡山君は焦ったように小さく叫んだ。

「走って、小早川さん!」
「え、」
「いいから!」

 何がどうなっているのか判らない。私を掴んだ手とは逆の手で、眼鏡を外して岡山君はちらりと後ろを振り返った。それに倣って私も後ろを振り返る。けれど、誰もいない。

「どうしたの?岡山君、」
「前、向いて!振り返っちゃ駄目だ」

 そう言った岡山君の顔は、心なしか青褪めている。ぐいぐいと私の腕を掴んで、走る岡山君は、名島君のバイトする古書店を通り過ぎたその先にある、まるで江戸時代の商家のような建物の中へと私を押し込んだ。外にあった、札を「準備中」に掛け直すと引き戸を勢いよく閉めて鍵をかける。

「あの、岡山君・・・」
「天邪鬼」
「え?」
「小早川さんの言ってた天邪鬼。あれ、夢じゃないよ」

 「瑠璃也、説明してあげなよ」と、息を切らせたまま、岡山君は溜息をつくように言った。私は「え?」と振り返る――名島君だ。居間に、名島君が座っている。

「あ、名島君!?」
「お疲れ、太郎ちゃん」
「全く、叔父さんがいない日で良かったよ」
「ごめんな。俺だけじゃどうにもできなくて」

 「鬼堂さんは手伝ってくれないからさ。こうして、店は抜けさせてもらえたんだけど」そう、名島君は肩を竦めた。私には何が何だか判らなくて、けれど何から訊けば良いのかも判らなくて、ただ茫然と名島君と岡山君を交互に見やる。
 その視線で名島君はようやく私が混乱していることに気付いたように、頭を掻きながら、

「小早川さん、ごめんね。俺があの本売っちゃったせいで、」
「本?」
「瓜子姫と、あまのじゃく」
「って、」
「夢なんかじゃないよ。ちょっと、信じられないかもしれないけど」





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