うちの店で扱っている本は、確かに何か思い入れの込められたせいで思念を持ったものが多い。けれど、それらの本が全ての人に影響を及ぼすかと言えばそういうわけではない。もしもそうだったなら、鬼堂さんはこんな店を構えてはいないだろう。普通の人がうちの本を買っていったところで問題はないのだ。
 あるとすれば、その本と波長の合ってしまった人間。所謂「呼ばれて来た」とか「求めて来た」というタイプの人間で、そういう人間と接触することで初めて本は思念を具現化することができるのだ、と鬼堂さんが説明してくれたことがある。
 尤も、俺は求める求めないに関わらず波長を受取ってしまう実に珍しいタイプの人間であるらしいので、特に関係もないのに非日常的体験に巻き込まれることが多い。全く厄介な話だ。

 そうして、本が人を選ばないというのは誰もが俺のように非日常を体験し得る可能性があるというのと同義だった。

「あれ、でも俺はあの本から何も感じませんでしたけど」
「瑠璃也君は瓜子姫じゃないでしょう」
「どういう意味ですか?」

 ――瓜子姫はね、まあ呼び名からも判るとは思いますが女性なんですよ。瑠璃也君。

 鬼堂さんの話を全て理解すると同時に、俺は真っ青になった。


 ***


(瓜子姫と天邪鬼、ねえ)
 名島君には「興味がある」と言ったものの、実のところ私はこの話をちゃんと知っているわけではない。幼い頃に一度、テレビで人形劇を見たくらいだ。内容も、あやふやだった。
(どんな話だったっけ)
 床に鞄を投げ出して、ベッドへと腰を下しながら紫色の装丁のその本へと視線を落とす。古びて紙は黄ばんでいたけれど、手入れはされているらしい。表紙に埃や汚れはみられない。
 おかっぱの女の子と、おじいさんとおばあさん。隅にぽつんと小さく、男の子とも女の子とも分らない子鬼が、描かれている。
 ――なんでだろう。
 いかにも主人公、といったふうに大きく、そして幸せそうな笑顔で描かれた瓜子姫より、隅に描かれたこの子鬼――天邪鬼の方が私の目を惹き付けた。不思議に思いながら、頁を繰る。
 むかし、むかし――で始まるそれは典型的な昔話だった。桃太郎に繋がる部分もあるかもしれない。仲良く暮らしていた、子供のいないおじいさんとおばあさん。瓜から生まれた、機織りが上手な女の子。
 ――いいかい、瓜子姫。最近、天邪鬼という妖怪が出るらしいから、私たちが帰るまで絶対に家の戸を開けてはいけないよ。
 ――はい。おじいさん、おばあさん、いってらっしゃい。
 昔話の中で、そういった約束事が守られることはほとんど無いのだ。だって、守られてしまったら何が起こることもないから。瓜子姫の場合も同様で、一人で機織りをしていた瓜子姫は“ぴたぴた”という足音と共に現われた、戸口の向こう側から聞こえた悲しげな声に耳を傾けてしまう。
 ――瓜子姫、ここを開けておくれ。
 ――おじいさんとおばあさんに駄目と言われているから、開けてあげられないの。
 ――私も一人で寂しいんだよ。

 ねえ、瓜子姫も寂しいだろう?

 ――指が一本、入る隙間だけでいいんだ。

 次は、腕が入る分の隙間、足が入る分の隙間。そうして自分で戸を開けた天邪鬼は瓜子姫を誘うのだ。

 ――ねえ、瓜子姫。柿を食べに行こう。私は美味しい柿が生っている木を知っている。



 そこまで読んだ私は、その先の展開を朧気ながらも思い出した。確か瓜子姫は天邪鬼に騙されて柿の木に縛り付けられてしまうのだ。そうして瓜子姫に成り代わった天邪鬼は、最終的にはおじいさんとおばあさんに正体を見破られ、殺されてしまう。その躯は蕎麦畑に捨てられて、
(だから、蕎麦の根は天邪鬼の血の色で今も、赤い)

「なんて言うか、嫌な話だなぁ」

 呟いて、私はそれを最後まで読むことなくパタン、と閉じた。表紙にぽつりと描かれた天邪鬼。小さな子供の姿をした、鬼。
(もしかしたら本当に寂しかっただけかもしれないのに)
 民間で伝えられてきた話であるから、こういった昔話に勧善懲悪型が多いのは仕方のないことだ。例えば時代劇などでもそうあるように、民衆は悪が徹底的に懲らしめられる話を好む。そこに存在する悪へと、同情のできるような背景を付与することは許されない。もしも、悪が完全なる悪でなくなってしまえば、人は少なからず可哀想だと感じてしまうからだ。それでは、すっきりしない。勧善懲悪型の話に求められるのは、爽快感である。


 何となく遣り切れないような気持ちになりながら、私はその本を脇へと放り出した。そのまま、ごろりとベッドに横になる。




 ぴたぴたぴた

(なんだろう)
 足をぺったりと地面について歩くような、そんな足音が鼓膜に響く。次に、とんとん、と窓ガラスを叩くような、音。私は目を開けることができない。誰かがいるのだ、と、意識では思いつつも瞼は重く、まだ眠っていたい気分だった。

「ねえ、開けてよ」

 ほんの少し掠れたその声は、小さな子供のもののようにも聞こえる。

「ねえ、開けて。瓜子姫」
(瓜子姫?)
 違う。私は瓜子姫じゃない。
 不思議に思いながら、私は目を開けようとする。眠い。酷く眠い。意識があることが、不自然であるくらい眠い。
(これは、夢?)
 指先に力を入れようとする――駄目だ。動かない。

「瓜子姫、瓜子姫」

 掠れた声は猶も私を呼ぶ。

「ねえ、開けて。開けて。ほんの少しでいいから」

 必死に瞼を持ち上げる。
 薄らと、開いた。視界に、微かに明かりが差し込む。そうして私は視線をゆっくりとベランダの方へと向けた。カーテンがきっちりと閉められていて、外は見えない。ただ、カーテンの裾は完全にガラスを覆ってしまっているわけではなかったから、ぼんやりと、そこに誰かがいることだけは判った。眠気に再び閉じそうになる、眸を凝らして凝視する。――二本の、足だ。まるで栄養の足りていない子供のように、細くて血色の悪い、足。
 不意にその足が遠退いた。
(行っちゃったのかな)
 ぼんやりと、そんなふうに思いながら漸く意識を手放せる、と再び眸を閉じようとした、瞬間、

 ――瓜子姫、

「ひっ、」

 ぎょろり、と光る金色の瞳が、カーテンの隙間のガラスからこちらを覗いた。身を屈めているにしても、有り得ない角度に私はぞっとして眸を瞑る。
(な、)
 心臓がばくばくと脈打つ。あれは、子供なんかじゃない。爛々とした、大きな瞳。
(あまのじゃく、)
 自然と、そんな単語が頭に浮かんだ。私はぎゅっと、眸を堅く瞑ったままシーツを握りしめる。部屋は空調が利いているはずなのに、嫌な汗がだらだらと背中を流れた。

 声は、あれきり途絶えている――
 もしかしたら、もういないのかもしれない。けれど、眸を開けて、またあの瞳を見てしまうことが怖くて、なかなか目を開けることができない。



「玲衣、寝てるの?起きなさい。夕飯よ」


 階段の下から、母親が呼ぶ声がした。
 私は漸く全身の力を抜いて、眸を開ける。シーツはぐっしょりと汗で濡れていた。汗で額に張り付いた前髪を払いながら、恐る恐る窓の方を見る。相変わらずカーテンはきっちりと閉められて、もう外も陽が落ちてしまったからだろうか。真っ暗で何も見えない。勿論、あの瞳も部屋を覗き込んではいない。
(夢、だよね)
 現実的に考えて、天邪鬼などいるはずがないのだ。
 枕元に置かれている本に気付いて、私はほうっと溜息を零した。――瓜子姫とあまのじゃく。名島君のお店で買ってきた、本。そういえば片付け忘れたまま、眠ってしまったのだった。
 しかも丁度、開かれていた頁は、天邪鬼が瓜子姫を訪ねてくる場面だ。これのせいだろう。眠る前に視界に入れたものは夢と言う無意識の中にも影響を及ぼすのだと聞いたことがある。
(でも、この頁を開いたまま寝ちゃったんだっけ?)
 そんな疑問が一瞬だけ脳裏を掠めたけれど、私はそれ以上考えるのをやめることにした。深く考えすぎて、またあんな夢を見たら堪らない。



 戸の隙間から天邪鬼が覗く、その押し絵に視線を向けることができずに、私はその紫色の本を閉じると本棚の隅へと押し込んだ。



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