――もしかしたら、覚えていないのかもしれない。
 あまり話をしないクラスメイトなんてそんなものだ。少しだけがっかりしながら「同じクラスの小早川だけど、」と名乗ろうとしたその前に、彼の方が先に口を開いた。

「小早川さん、何で、ここに?」

 訊ねてから、名島君自身もその問いかけがおかしいことに気付いたのだろう。微かに苦笑いをして、「ほら、ここって分り難いだろ?滅多に学生なんて来ないからさ」と付け足した。

「岡山君に、名島君がここでバイトしてるって聞いたから…」
「ああ、太郎ちゃんね」

 親友、というのは強ち岡山君の自称というわけでもないらしい。親しげに名前を呼んだあとで、けれど名島君は不思議そうに「でも、」と疑問の声を上げた。
 少しだけ首を傾げたような、その仕草がなんだか可愛い。襟足まで伸びた少しだけ癖のある黒髪が揺れる。

「俺に何か用?」

 明らかに困惑したような、声。私は言葉に詰まった。何も考えていない、というか、こんなに小さな店だと知らなかったから少し様子を見に来ただけのつもりだったのだ。こんなに分り難い場所にあって、偶然を装うこともできずに素直に岡山君から聞いたということを白状してしまったのだけれど、
(さすがに、名島君に興味があるんです、とは言えないよなぁ)
 びっくりするとかしないとか、それ以前に引かれてしまいそうだ。
 咄嗟に、私は傍らにあった薄い本を手に取る。

「その、古書店でバイトしてるって聞いたから。私、こういうお店好きで、」
「あ、そういうこと。俺の方がついでなわけね。悪い、自意識過剰だった」

 苦し紛れに思いついた言い訳だったのに、名島君は冗談めかして言いながら、すんなりと納得してくれたみたいだった。

「うちの店の本、結構クセがあるっていうか、お勧めできないんだけど…」
「クセ?」

 どういう意味だろう。意味が判らずに問い返す私に、名島君は「まあ、何も感じないみたいだし大丈夫か」とそんなようなことを呟いた後で曖昧に笑った。

「ううん、何でもない。で、それ?」
「う、うん」

 正直、タイトルすら見てなかった。慌てて手の中の本に視線を落とせば、

「瓜子姫とあまのじゃく…ああ、俺これ小さい時読んだことあるよ。小早川さんって伝承専攻だっけ?」
「違うけど、ちょっと興味があって」
「そっか。えっと、いくらだ?」

 古びたその本を裏返して、名島君は貼り付けられていた紙の値札をべりべりとはがした。きっちりとした字で「\500-」と書かれているから五百円なのだろう。

「はい、丁度頂きます。まあ、また気が向いたら寄ってよ。水曜は大抵朝からここにいるから。見ての通り暇だしさ。何か欲しい本があるなら探しとくし」
「うん、また来るね。ありがとう」

 受け取った本をバッグの中に仕舞う。
 もう少し話したい、と思ったけれど嘘をついてしまった手前――名島君は全く気付いていないし気にしている様子もないのだけれど――何となく決まりが悪くなって、迷った末に私は帰ることにした。

「そうそう、多分大丈夫だと思うけど、何か変わったことがあったらすぐに言って」

 ドアを引こうとした瞬間に、名島君は私の背中へとそう、声をかけた。
(変わったこと?)
 落丁とか、だろうか。でもそれは古書だから仕方がないことだ。普通の古書店では確かそういった本の返品や交換はしないはず。訝しんでみても、判らない。
 ――クラスメイトだから、そう言ってくれたのかもしれない。
 そう結論づけた私は、まさか本当に「変わったこと」が起こるだなんて考えもせずに、来た時同様ギィという蝶番の音を聞きながら店を後にしたのだった。



 ***



 ――それにしても小早川さんはどうして態々うちの店に来たんだろう。

 その背が明るい外の景色へと溶け込んで消えるのをぼんやりと眺めながら、俺は首を傾げた。古書を見にきたにしては、大して中の様子を覗いていったわけでもない。そもそも、あの太郎――岡山太郎だ。親友と言っても差支えはないかもしれないが、俺は太郎ちゃんのように似非臭い笑顔の似合う人間ではないので間違ってもそれを口に出して言ったりはしない。だって真顔でそんなことを言うなんて恥ずかしいじゃないか。――とどういった会話を経てうちの店の所在を聞き出したりしたのだろうか。
 隣の蛟堂で叔父さんの手伝いをしている太郎は勿論、うちの店の性質を良く知っている。それだけでなく、蛟堂自体がうちと同様、もしくはそれ以上に非日常的な性質を持った店であるから、俺や太郎は他人にこの辺りの店の存在を告げることなど滅多になかった。
(ははあ、もしかして太郎ちゃんてば小早川さんに惚れちゃってるな)
 俺が学校に行っていない隙に自分だけ彼女を作ろうだなんていい度胸をしている。今度会ったら何か奢らせようと思いながら、在庫記録――鬼堂さんはこれをどうやって作っているのだろう。店にある全ての本は、この一冊の記録帳に全て記されているのだ。均一本から貴重な資料まで、全て。――の、「瓜子姫とあまのじゃく」の欄にチェックを付ける。



 ふ、と紙の上に影ができた。

「しっかり仕事してるみたいですね、瑠璃也君」

 視線を上へと上げれば、いつの間に入ってきたのだろう。いつものように真っ白な皺一つ無いシャツに黒のフォーマルベストを着て、さらさらとした長めの黒髪を首の後ろできっちりと括った鬼堂さんが俺を覗き込んでいる。
 うちの母親の後輩だと聞いたことがあるから、年齢は確実に三十の後半へと差し掛かっているだろう。にもかかわらず涼やかな目元や皺一つない綺麗な顔は年齢を感じさせない。童顔というわけではなく、年齢不詳というのが正しい。
 非日常に足を踏み込んでいる俺は、この不思議な古書店の不思議な店主が実は人間ではなく本の妖精さんなんじゃないかと疑ったこともあるのだが、真実を問うことはできずにいる。ただ、以前母親から見せて貰った写真の中の鬼堂さんは今とほとんど変わらぬ顔をしていた。
 俺は名前で呼ばれたことにほんの少しだけ眉を寄せる。
 「女の子が生まれたら絶対に瑠璃ちゃんにしようと思っていたの」と、女児の生誕を信じて疑わなかったらしい俺の母親は男児の誕生に名前を考えるのも面倒であったとみえる。「也」と付ければまあ男児の名前として使えないこともないだろう、と、そういう理由でこんな変わった名前を付けられたのだと小学校高学年の頃に酒に酔った父親から聞かされた俺は、長年の疑問を解決したと共に少しだけ凹んだ。なんて適当な親なんだ。親父も止めろよ。
 以来、あまり自分の名前が好きではない。何より言い難いじゃないか。るりやって。
 まあ、言ったところで改めてくれるような鬼堂さんではないので、俺は一つだけ溜息を零して在庫記録を鬼堂さんへと渡した。シルクの手袋をはめた細い指が薄い紙をめくってゆく。

「瑠璃也君、」

 何かに目を留めたらしい、鬼堂さんの表情が僅かに曇った。

「この瓜子姫を買っていったのは蛟堂さんですか?」
「いや、違いますけど」

 隣の店の、目つきの悪い黒スーツの店主の姿を思い出しながら俺は首を左右に振る。
 鬼堂さんは、珍しく困ったような顔をした。

「メモ、置いてありませんでしたか?」
「メモですか?」

 きょろきょろとデスクの周囲を見回せば、丁度アームチェアの下に紙切れが一枚落ちていた。――蛟堂さんに売約済。

「あ、」
「困りましたね…」
「すいません。あの、買ってったの、俺の知り合いなんで事情を話して返してもらいましょうか?」
「瑠璃也君の知り合いなんですか?」

 鬼堂さんは、その秀麗な眉をますます顰めて「それはいけませんね、」と呟いた。

「その方は女性ですか?」
「あ、はい。あの本に何か問題でも?」
「大有りですよ。瑠璃也くんはあの本を読んだことがありますか?」
「ありますよ」
「じゃあ、あまのじゃくも知っていますよね」

 頷く俺に、鬼堂さんは薄紅色の唇から吐息を零す。

「あの本のあまのじゃくは少しばかり性質が悪くて、処分に困っていたんですよ。蛟堂さんにそれを話したら是非とも買い取りたいと言うので安心していたんですが」
「性質が悪い、というと」
「人を選ばないということです。誰でも瓜子姫に成り得る可能性が、ある」





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