名島瑠璃也、という人間は少し変わっている。
 同じ年頃の男の子たちと比べると、不思議な落ち着きを感じる。「コンパだ」「飲み会だ」と皆がわいわいやる輪の少し外れたところからそれを眺めているのだけれど、だからといって付き合いが悪いわけではない。いつの間にか輪の中に加わっているから、探せば飲み会でもコンパでもよく彼の姿を見ることはできる。誰もそれを不思議に思ってはいない。まるで空気のような人だ。地味というわけではなくて、居て当たり前、というか。
 ――普通すぎて、普通に見えない。
 これは勝手に私が思っていることだけれど。
 他の友達に言えば、「えー?そう?名島ってものすごく普通じゃない?何?あんた名島のこと好きなの?」とでも言われそうだから口にしたことは無かったが、私はそんな名島君に興味を持っている。
 ――人当たりは良いけれど、冷めている。いや、冷めているというのとは、また違うのかもしれない。どこか私達とは違うところを見ているような、そんな気がする。だから、だと思う。何となく気になるのだ。

 私にはまるで繰り返すように変わらぬ日々が続いているように見えるこの世界が、名島君にはどんな風に見えているのだろう、と。

「そういう小早川さんも、随分変わっているよね」

 名島君の自称親友である、岡山君に相談してみたところ、彼は「瑠璃也に興味を持つなんて、フツーじゃないよ」と言って笑った。
(それは名島君に失礼じゃないのかなぁ)
 肯定することも否定することもできずに、私は曖昧に笑い返す。岡山君は「瑠璃也なら、多分今日はバイトだと思うけど」と言ってルーズリーフに地図を描いてくれた。ああ、だから今日は探してもいなかったのか。キャンパスから二駅――案外近い。家がその辺りなのだろうか。

「有難う。行ってみるね」

 バイト中に押しかけるのは迷惑かな、とも思ったけど、岡山君の「ああ、多分暇だから大丈夫だよ」という言葉を信じよう。それに、今日はちょっと顔を出すだけのつもりだし。
(そういえば、名島君は私のことを知っているのだろうか)
 同じクラスだけれど、それほどよく喋るわけでもない。むしろ数える程しか会話をしたことがないことに気づいて私は急に不安になった。


 ***


 暇だ。恐ろしく、暇だ。
 きゅきゅっと、ガラスケースを拭きながら溜息を吐き出す。強い陽射しが恨めしい。本当に、何やってんだ。俺は。
 箒と塵取、そしてハタキを纏めて掴み、雑巾をバケツの中へと放り込む。掃除も終わってしまった。これから五時間程、何をして過ごせばいいんだ。午前中で本の手入れは終わってしまっている。
 たっぷりと時間をかけて、雑巾を洗う。冷たい水が心地良い。掃除用具の片付けすら終わってしまった俺は、途方に暮れながらアームチェアに腰を下ろした。ペンダントランプの明かりは、真夏の陽射しに比べると穏やかで、少し冷えすぎなのではないかと思われる程に冷房の効いた店内は真夏を感じさせない。
 外では煩いくらい、蝉が鳴いていたというのにそれさえも聞こえず、本当に「無」だけが支配している。
(いや、無、ではないんだろうけど)
 目を瞑ればほんの少しだけ、ざわめきを感じる。鬼堂さん曰く「本たちの声」だそうだ。一般人に言ったら、正気を疑われるだろう。しかし俺は悲しいことに一般人から少し外れてしまったので素直に鬼堂さんの言葉を受け止めている。
(誰か、来るのかもしれないな)
 ふと、そんなことを思った。来て欲しかったのかもしれない。何せ、大通りの賑わいが嘘のようにこの辺りは閑散としている。まるで現世から切り離されたかのように、静かだ。遠慮の無い言い方をするのならば、寂れているともいう。何せ客は数える程しか来ない。
 眠気に襲われる程、暇だ。けれど居眠りなんてしようものならば、帰って来た鬼堂さんに怒られるので――あの人は何故か留守中に俺が眠っていたかいないかをいつも当ててみせるのだ。そして静かにな口調で淡々と説教をする鬼堂さんほど怖いものはない――傍らにあった本を手に取る。
(常連の爺さんでもいいや。とにかく暇すぎる)
 ばらばらと本の頁を捲って、閉じる。なんて無意味な行動なんだ、と思いながら元の場所に本を戻して、溜息。話し相手に年寄りを求める程人間とのコミュニケーションに飢えているあたり、本当に俺は若者として終わっている。嘆いて、「あああ、」とデスクに伏せる俺の耳に、ぎぃ、と蝶番が軋む音が響いた。

「あ、いらっしゃいませ」



 ***



 ――本屋、なのだろうか。ここは。
 否、正確には本屋ではなく、古本屋、なのではあるが。
 まるでそうは見えない。私は岡山君に書いて貰った地図を見直す。駅からそう遠くはない、けれど角を幾つか曲がって酷く複雑な、いわゆる裏通りと呼ばれそうな場所にその店はあった。
 商店街大通りの賑わう声が遠い。じりじりと鳴く蝉の声さえも遠く聞こえるような、気がする。閑散としているから、という理由だけではない。まるでここだけ別世界のような――そう、雰囲気が違うのだ。まるで、名島君のようだ。普通であって普通ではない。気に留めなければ気にならないかもしれないし、気のせいのように思えるだろう。
 多分、ふらりと迷い込みでもしなければ普通の人は足を踏み入れることがないのではないか――と、漫画の読みすぎだとでも言われそうなことを考えながら、私は綺麗に磨かれたガラスから中を覗く。


 店内はペンダントランプの落ち着いた光で外に比べると薄暗い。濃赤色の絨毯の上に、緻密な彫刻の施された棚が幾つも並んで、やはり古本屋と言うよりアンティーク家具屋のようだった。(そういえば、このドアやガラスケースの彫刻なんかも…) 売り物だと言ってしまうには、あまりに店に馴染みすぎている。
 棚にびっしりと――こういうところだけは本屋と呼ぶにふさわしく――詰まっている本を眺めながら、私はもっと馴染む喩えがないものかと考えた。
(ああ、そうだ。授業で習った、)
 程なくして思い浮かんだのは、今日の講義の内容だった。中世頃の、英国貴族が持ったと言われる私的な図書館に似ているのだ。当時の図書館というのは利用よりも貴族が己の蔵書コレクションを飾ることで権威を示すことを目的としたのだ、とそんな内容の講義であったのだが、確かにここも調度品と本とを飾ることを目的とした場所、と見るとしっくりくる。
 多分、ここの店主は家具と本の収集趣味があるのではなかろうか。所謂マニア、というやつだ。

 そんな勝手なことを思いながら、私はようやくドアを開ける気になった。蝶番がギイ、と軋んで音を立てる。と、同時に、

「あ、いらっしゃいませ」

 聞き覚えのある声が、慌てたように、そう私を迎えた。




「あ、えっと、こんにちは。名島君」

 ドアを開けて最初に目に入ったのは、目的である当の名島瑠璃也君本人だった。
 思わず間抜けな挨拶をしてしまってから、ぽかん、と口を開いて私を見ている名島君に、不安になる。彼は私のことをクラスメイトとして認識しているのだろうか。




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