幻影書房――

 其処は誰かを求める本が集まり、何かを求める人間が惹かれ訪れる不思議な場所である。



 ***



 狭い道路の脇に、店が所狭しと押し込められたように立ち並ぶ。古びた不動産屋だとか、客が入っているのか判らないブティックだとか、路上に水を垂れ流す魚屋だとか、偶に近年になって作られた綺麗なコンビニやファーストフード店、ケータイショップなどが入っていて、酷くちぐはぐに見える。そんな、どこにでもある商店街の一つ通りを入って、角を三つ四つ曲がった所謂裏通りに、その店はある。
 古書店「幻影書房」
 開いているのか閉まっているのか判らない、やる気のなさそうな店構え。恐らく大抵の人間はもしも店を見つけることができたとしても、中へ入ろうとは思わずに素通りしてしまうだろう。普段足を運ぶのは店主の友人知人か、古くからの常連客、もしくは余程の物好き、暇人くらいだ。
 俺は無駄に繊細な彫刻の施されたアンティーク調のドアを掌で押した。ギィ、と蝶番が音を立てる。
 赤い絨毯の敷き詰められた床。これまたディティールに凝ったブックシェルフがいくつも並び、天井から吊り下がったペンダントランプが暗すぎもせず、明るすぎもせず、落ち着いた色調に店内を照らす。


 ブックシェルフにぎっしりと本が詰まっていることに目を瞑れば――いや、本の量を除かなかったにしても、古書店と呼ぶよりはアンティーク家具屋と呼んだ方が相応しいような気がする。
 そんな店の奥にあるデスクに、一人の男が座っている。幻影書房の十二代目店主、鬼堂さんだ。真っ白な皺一つ無いシャツに黒のフォーマルベストをきっちり着こなす姿はよくよく考えれば時代錯誤云々の前に、やっぱり古書店らしくはないんじゃないかと思うのだが、それを指摘したことはない。
 ――何となく、何となく口に出して言ってはいけない気がするからだ。
 俺はそういった本能の訴えには極力従うようにしている。 俺が「こんにちは、鬼堂さん」と挨拶をすれば、鬼堂さんは本にブラシをかける手を止めて、顔を上げた。

「おや、瑠璃也くん。今日は遅刻をしなかったのですね」

 俺の名前は名島瑠璃也。文系大学の二年生だ。

「俺だって前以て連絡貰ってれば遅刻なんかしませんよ」

 いつもいつも、急に電話を掛けてきては「店番を頼みます、瑠璃也君。今すぐに、です。私は仕入れに出なければいけませんので」と頼まれるのだ。


 学校から急いで直行したところで、キャンパスから此処までの道のりは優に二十分以上はかかるのだから、それを遅刻と言われるのは心外だ。唇を尖らせて抗議する俺に、鬼堂さんは涼やかな顔で笑った。

「そうですか。では、私は仕入れに行かなければならないので、店の方は頼みますよ。瑠璃也君」

 女も羨むくらいにさらさらとした綺麗な黒髪、額にかかった長めの前髪を後ろへと撫で付けながら鬼堂さんは赤い革張りのアームチェアーから立ち上がった。
 仕入れの支度をするために、裏へと引っ込んでしまった鬼堂さんの代わりに俺はアームチェアに座ると傍らに積み上げられていた本を一冊手に取った。ブラシをかけて、洗剤を染み込ませた布で表紙を丹念に拭いてゆく。ちらりと残りの本に視線を移せば、今度はどこから仕入れてきたのやら。どれもこれも真っ黒に埃で汚れて、手入れは骨の折れる作業になりそうだった。量も多い。
(恐ろしく気の遠くなるような作業だ)

「手を抜かないで、ちゃんと全部綺麗にしてくださいよ」

 こそりと溜息を零せば、奥から顔を出した鬼堂さんが釘を刺すようにそう言った。


「はいはい。判ってますって」

(俺だってバイト代貰ってるんだから、手を抜くことなんてしませんよ)
 それに、手を抜いたところで古書に関する目の厳しい鬼堂さんを誤魔化せるはずがなく、また一から拭き直しを言い渡されるのがオチだった。手を抜いたことがあるわけじゃない。言っておくけど俺はそこそこ真面目だ。ただ、このバイトを始めたばかりで慣れていなかった頃に何度かそういうことがあったという話なだけで。
 思い出して、浅く息を吐き出しながら答える俺に、鬼堂さんはその造り物のように端整な顔に笑みを浮かべると黒の革鞄を腕に下げ、

「では行ってきます。あ、私がいない間はくれぐれも気をつけてくださいね」

 裏口から出てゆく姿を見送って、何となく鬼堂さんが普通に商店街を歩いている姿が想像できずに、実はあの裏口はどこか別の場所に繋がっているんじゃないかと、そんなことを思いながら俺は作業を続ける。


 それにしても汚い。
 黒く煤けたような汚れに、赤茶けた――錆ではないよなぁ。ごしごしと擦れば布はみるみるうちに真っ黒になる。それを洗って、再び洗剤を染み込ませて拭いて、時折、本当にごくごく稀に来る客の相手をして、黙々と手を動かし続ければ次第に本の量も減ってくる。最後の一冊を手にした時には、洗剤と埃で手は荒れきって、窓から見える外は真っ暗になっていた。腕時計を見る。――十時。閉店時間だ。
(何というか、学生らしくないバイトだな。泣けてくる)

「ま、これで最後の一冊だ」

 今までの本よりも一層汚れた、薄い本を俺は手にとった。泥と埃に塗れているが、辛うじて蒼い装丁をしているのだと判る。丁寧に拭けば表紙が表れた――金髪の綺麗なおねえちゃんだ。外国の本なのだろうか。ぱらりと捲れば、どうやらそれは絵本らしかった。


「ああ、人魚姫か」

 幼い頃に読んだことがある。哀しくも美しい物語の内容を思い出しながら俺は頁を繰る。
(泡になって消えちゃうんだったっけ)
 酷く報われない恋だ。王子は結局何に気づくこともなかったのだろう。それだというのに、一途にも王子への想いを胸に秘め一人深海へと消えてゆく姫の姿を思い浮かべて俺はこそりと溜息を零した。
 「可哀相に。俺が王子だったら、」なんて思わず呟いて、何となく恥ずかしくなる。店の中には俺しかいないけど。いや、独り言だからこそ余計に恥ずかしいのか。とにかく、絵本を拭き終えた俺はそれを積み上げた本の山の一番上へと重ね、速やかに閉店作業をして戸締りをした。
 うっかり人魚姫に気を取られていたせいで、遅くなってしまった。早く帰らないと見たいドラマが始まってしまう。
 片付けをして、灯りを消す。店の戸締りをして真っ暗な帰路を急ぐ。何だかんだで腕時計を見れば十一時を回っている。――当然、辺りは暗い。
 静寂の闇の中、切れかけた街灯がジジっと音を立てて点滅するのを不気味に思いながら俺は歩みを速める。別に怖いわけじゃない。閉店時間まで残るのは初めてではないし、そもそも俺みたいな良い歳した男が怖がっても可愛くもなんともない。




(けど、なぁんか嫌な予感がするんだよなァ)
 それも、覚えのある感覚だ。ついでに俺の嫌な予感というのは外れたことがない。更に言えば、俺はこの危険察知能力とは裏腹に、予期した危険から逃れたことがただの一度も無かった。 

 そのうちに、俺は足音が自分一人のものだけでないことに気付いた。

 ぺたぺたぺた。
 足音?それにしては何だか不自然だ。
 人間が立てる乾いた足音とは、違う。もっとこう、そう、水音を含んでいるのだ。まるで水辺を歩いているかのような、足音だ。
(この辺りに水辺なんてあったか?)
 考えるまでもなく、無い。空はからりと晴れて星が出ている。水溜り一つ、無いのだからその足音は不自然すぎた。
 俺はそこまで考えて、鬼堂さんの出かけ際の言葉を思い出す。

 ――私がいない間は、くれぐれも気をつけてくださいね。

(どうやって気をつければいいんだよっ)
 走り出そうとした俺の足に、何かが絡まった。足を縺れさせて、地面に転がる。痛い。ものすごく痛い。打ち付けた膝を押さえてのた打ち回りながら、視線を足首に移す。海草が絡まっている。ていうか、何で海草?ああ、何か濡れてて気持ち悪いしっ!


 両手で海草を剥がそうともがく、俺の目の前でぺたぺたという足音が止まった。月明かりに浮かび上がる、真っ白で凹凸のある体。甘いハニーブロンドに輝く巻き毛、彫刻のように端整な顔立ち。もしも彼女が人間であったのなら俺も男だから是非ともお近づきになりたいと思っただろう。もしも人間の女だったらの話ですけどね!!
 全身びしょ濡れ全裸で海草を体に巻きつけた人間の美女なんてどこの世界にいるっていうんだ。お近づきになりたいどころか、もの凄い勢いで遠ざかりたい。悲しいことに、こういった経験は初めてではないから俺の頭はすんなりとこの異常事態を受け入れる。

「ちょ、待って、待った!話し合おう。俺、英語できないけど、とにかく話し合おう」

 女は首を傾げた。口をぱくぱくと開閉させるが、そこから漏れるはずの声はない。俺は閉店間際に手に取った本を思い出す。――人魚姫。


 ――もしも、おれが、おうじだったら、きみを、ひとりあわにしたりは、しないのに。


 薔薇の蕾のような唇が音を紡がずに、けれどはっきりとそう動いた。俺はカァっと頬に熱を昇らせる。恥ずかしくなるようなその科白は、紛れもなく俺が店で彼女を目の前に呟いた言葉だった。


 ――ほんとうに?


「そ、それは、」

 地面に転がったまま、ずりずりと後ろへ後ずさる俺の足を、人魚姫は掴んだ。その手は氷のように冷たい。しっとりと濡れた体で圧し掛かられて、俺は身動きが取れなくなる。近づいた顔、薔薇色の唇からはやはり冷たい吐息が漏れて俺の唇にかかった。人魚姫の手が俺の頬を撫でる。アイスブルーの瞳に覗き込まれて、俺は言葉を詰まらせる。
 氷の青、悲しみの青、孤独の、青。酷く切ない色をした瞳は今にも泣きだしてしまいそうに潤んでいた。

 
 ――ねえ、ほんとうに、あなたなら、わたしをひとりにはしない?


 頭の芯がぼうっとする。口を開くことのできない俺に焦れたように、人魚姫は俺の胸、心臓の上へと冷たい手を乗せしっとりと撫でる。




 ――すきだと、いってくれますか。


(ああ、深い海の底で眠りについていた彼女を起こしてしまったのは俺なんだ)
 本心だった。けれど、軽い気持ちで同情なんてしたら駄目だと常々鬼堂さんから忠告されていたのに。


 幻影書房――十二代目店主、鬼堂六が営むこの古書店は、普通の古書店とは違う。以前の持ち主から強い想いを込められて、思念を宿してしまった本や、曰く付きの本ばかりを扱う、日常と非日常の間に位置する店だった。
 俺は高校時代に鬼堂さんの先輩だったという母の勧めでこの店でバイトを始めて初めて、自分がこっち側の人間であったと知ったのだ。


「ああ、君は何でも受け入れてしまうタイプなんですね」
「どういうことですか?」
「好かれやすいってことですよ。君の持つ柔らかな雰囲気はね、うちの子たちにとっては明かりのようなものなのです。君を目指せば満たされるのだと、そう思わせてしまう」


 最初の頃は、その会話の意味も判らなかったが、こうして何度も奇怪な事件に巻き込まれると嫌でも自覚をする。俺が引き寄せるのか、それとも引き寄せられるのか――普通の人間ならば気づくことのないシグナルに、俺は無意識のうちに答えてしまうのだ。





 ――ねえ、わたしの、おうじさま。


(あ、もう駄目かも)
 恐らく意識を失えば、その次の瞬間には俺はこの世界から消えているのだろう。そして、恐らくこの場に残ったただ一冊の蒼の絵本の結末が、ほんの少し、変わっているに違いないのだ。

(それも、悪くはないかもしれない)
 嫌だ、と思う反面で、ふ、とそんなことを思った。死にたくはない。けれどこれは死とはまた違う。

「そうしたら、君は救われるのかな」

 人魚姫は笑った。悲しそうに、自分でも判らないといったふうに、眸を細めた。その拍子に涙が一滴、俺の頬に落ちた。
(可哀想に)
 どうすれば良いのか判らないのだろう。きっと、俺を目指して出てきてしまっただけで、どうすれば救われるのか、何をすればいいのか判らずに本能のまま俺を求めているだけなのだろう。冷静な頭でそんなことを考えながら、俺はブロンドの髪に僅かに動く手をそっと差し入れた。

「ごめんな」

 人魚姫はふるふると首を左右に振る。そっと近付けられた唇に、俺は眸を瞑り――
 諦めかけた、その時、不意にパンっと乾いた音が響いた。



「瑠璃也君。うちの子に手を出さないでくれませんか」

 辛うじて視線だけを動かす。街灯の下で、呆れたような顔をした男が一人、黒の革鞄を足下へと置いて両手を合わせている。


「あ、鬼堂さん」

 体が、軽くなった。
 俺の上に圧し掛かっていた女の感触はなく、ただ一冊の本だけが俺の胸の上にばさりと広がっていた。鬼堂さんはシルクの手袋をはめた手で本を摘み上げる。

「やれやれ、今度は人魚姫ですか。瑠璃也君、貴方もよくよく本に好かれる人ですね。人間の女の子にはもてないのに」

 呆れたような声に、むっとしたけれどその言葉は精確に俺の痛いところを突いていて、全く反論の余地がない。

「どうせ、また貴方が口説くようなことを言ったんでしょう」
「言ってませんよ」

 決まりが悪くなって、小さな声でそう返したが、説得力などなかっただろう。そのつもりはなかったのだけれど、結果的に俺が口説いたことになるのだと思う。多分。

「本は繊細なんですから、気をつけてくださいといつもあれ程言っているのに」

 「付いて来てしまうなんて、この子も余程貴方のことを気に入ったんですね」と、溜息混じりに零しながら、鬼堂さんは俺に本を差し出した。
 この世界を捨ててしまってもいいと、ほんの一瞬だけ諦めてしまった自分を思い出してぞっとしながら受け取るのを躊躇う俺に、「いらないんですか。冷たい人ですね」と畳み掛ける。


「ここまで執着されてしまうと他の方には売れないので、貴方が受け取ってくれないのなら廃棄するしかないんですが」

 いつもと変わらぬ穏和な表情。穏やかな口調の中に、有無を言わせぬものを感じて、俺は渋々差し出された絵本を手に取った。

「も、もう出てきたりはしませんよね」

 俺は鬼堂さんみたいに、思念を強制的に押し込める能力なんて持っていない。次に出てこられて、もしも迫られたらその時こそこの世界ともお別れだろう。

「多分ね」

 鬼堂さんは、怯える俺に、そんな軽い調子であてにならないことを言った。



 ***



 最初に見た時よりも、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をした女の横顔が表紙の、その蒼い絵本は今は俺の部屋の本棚に飾られている。鬼堂さんは「多分」と頼りないことを言ったが今のところ彼女が本の中から出てきて再び俺に迫ってくる気配は無い。代わりに時折彼女は夢の中に現れて、俺に向かってにっこりと微笑むのだ。
 傍にいられれば幸せとでもいうような、そんな健気さを可愛いと思ってしまうあたりが、やはり俺が鬼堂さんから「好かれやすい」と言われる所以なのだろう。勿論悲しいことに人間の女の子に、ではなく本に、ではあるが。



 頁を繰って、結末を含む数頁が真っ白くなっていることに気付いて俺は少しだけ口許を綻ばせた。

「君は幸せになれたのかな」

 その問いかけに答えるように、窓から吹き込んできた風がばらばらと紙をめくって一枚の押し絵の頁で止まる。頬を健康的な色に染めて、微笑む彼女だ。夢の中と同じ笑顔に俺は安心する。
 ――夢の中でなら、いつでも君の王子になってあげられるから。
(って何を言ってんだ、俺は)
 ふ、と彼女に向けて呟いた言葉が、相変わらず酷く恥ずかしい科白であることに気付いて俺は一人羞恥に赤くなりながら、蒼の絵本を丁寧に棚へと戻した。




 古書店、幻影書房――そこは誰かを求める本が集まり、何かを求める人間が惹かれ訪れる不思議な場所である。






-了-