幼く臆病で、可愛らしい弟は、兄の問いかけにほんの少しだけ躊躇ったようであったが、ややあって口を開いた。

「夢に――」

 ――出てくる、女の人が。

「恋煩い?」

 冗談めかして問うた瞬間、辰史はその大きめの瞳を不審そうに歪めて固く口を閉ざしてしまった。やれやれ、生真面目な弟だこと。と、秋寅は肩を竦める。

「幼稚園の先生とかじゃないの?」
「ちがいます。もっと若くて、き、」
「き?」

 ――きれいな。
 囁くようにぼそっと、呟かれた幼い弟の台詞に秋寅は瞳を大きくした。辰史はといえば、そのませた言葉を吐き出すと同時に真っ赤に染まった顔を俯けて、しぱしぱと眸を瞬かせている。
 それが、恋煩いというのではないか。
 再び問おうとして、秋寅はやめる。瞬きを繰り返す弟の瞳の中に微かな不安と後悔の色を見つけた為である。

「それで、辰ちゃんは何がそんなに悲しいのかな。虐められた?その、綺麗なお姉さんに」
「いえ――」
「じゃあ、ふられちゃったとか」
「……」

 おっと、失言。
 慌てて口を噤み、愛想笑いを浮かべる。弟の失望に彩られた瞳が胸に突き刺さる。卯月とは違い、普段そんな顔をすることのない辰史であるから余計に。

「嘘だよ、辰ちゃん。ほら、お兄ちゃんに続きを話してくれないかな」
「……それだけです。夢に出てくる女の人が、悲しそうな顔をしているだけ」

 早口で言って、跳ねるように立ち上がると――恐らく祖父の許へ向かったのだろう――駆けて行ってしまった弟の後ろ姿を見送りながら、秋寅は困ったようにぽりぽりと鼻の頭を指で掻いた。


「あらら。これで唯一兄さんの味方だった辰史にまで嫌われちゃったわね。兄さんは考えるより先に口を開こうとするからいけないんだわ」

 いつの間に背後に立っていたのか、振り返れば制服に身を包んだ卯月が呆れたような顔をして髪を結んでいた。

「うーちゃん、見てたならフォローしてくれたっていいじゃない」
「そしたら幾らくれた?二万円からなら考えてあげなくもないけど」
「お金に汚い女の子は嫌われるよ」
「懐の寂しい男なんてこっちからお断りだわ」

 ふん、と鼻を鳴らして母に似た美しい顔へ浮かべる笑みは兄である秋寅もどきっとするほどに妖艶である。ただし卯月の性格は母とは似ても似つかない。三輪家の驕りと金銭至上主義という厄介な部分ばかりを継いだ三輪家の次女は誰に対しても――特に兄である秋寅に対しては特に――辛辣で、酷く傲慢だった。

「それにね、辰史の悩みなんて私たちにわかりっこないのよ。あの子、私たちとは違うもの」
「うーちゃん、そういう言い方は良くないよ。辰ちゃんはまだ小さいし、何も知らない。もしかしたら普通の子供かもしれない」
「そんなはずないわ」

 窘める秋寅に、卯月は顎をついと上へあげて目元へ憐れみを浮かべる。
 秋寅は卯月の表情に、ほんの少しだけ口元を引き攣らせた。それは見覚えのある表情だ。表情、というよりその瞳が。先に見たばかりの――

「そっくりだったでしょう?さっきの、辰史の顔。私の顔に」

 真面目に話を聞いてくれない兄に失望する弟が初めて瞳に浮かべた軽蔑は――辰史も卯月と同じく母似である為か――皮肉げに嘲笑を浮かべる卯月の顔と実によく似ていた。

「普通の子供がこんな顔するはずがないもの。絶対あの子も、嫌な子だわ。私よりもっと嫌な子かも」
「卯月。自分のことをそんな風に言うのは止しなさい」

 今度はぴしゃり、と窘める。卯月は珍しく兄らしい表情を見せた秋寅に一瞬だけ鼻白んだようだったが、すぐに面白くなさそうに鼻を鳴らしてくるりと秋寅に背を向けた。

「何よ。秋寅兄さんったら、年上ぶっちゃって。面白くなーい。私、先に学校へ行くわよ。意地悪な兄さんのことなんて、待っててあげないんだから」
「はいはい、行ってらっしゃい」

 ひらひらと手を振ってやれば、卯月は初めて歳相応に唇を尖らせ、頬を膨らませるとぷいっとそっぽを向いて先の辰史と同じように走っていってしまった。妹や弟というのは扱いが難しいものだ、と溜息を吐き出しながら秋寅はそのままになっていた辰史の食器を重ねて流しへと運ぶ。

 玄関の方から「兄さん、早くしないと遅刻しちゃうじゃない!急いで!」と叫ぶ卯月の声が、聞こえた。
(やれやれ。本当に気紛れな妹だこと)



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