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「辰史、ぼんやりしちゃってどうしたわけ?」

 朝食を目前にしたまま匙を動かそうとしない辰史に、正面へ座っていた秋寅が訝しげに訊いた。食卓に着くのは秋寅と辰史のみである。
 父三郎の朝は早く、滅多に子らと朝食を摂ることはなかったし、小食な卯月は秋寅の半分程も食べずに食器を片付けて早々に部屋へ戻ってしまった。祖父の尊は、今は仕事でこの地を留守にしており、母の華緒は台所にいる。
 ――全く食事ぐらい皆でゆっくり談笑でもしながら食べればいいのに。
 と、秋寅は思うのだがこの家の人間には食事に限らず〈一家団欒〉の一時を過ごす、などという習慣がないのだから仕方ない。
 そんな家族のあり方が当たり前になった今では幼い頃のように家族に甘える他の家の子供を羨ましいと思うこともなくなったが、それでもまだ術者としての手ほどきを受ける前のこの弟に関しては父にしろ母にしろ、もう少し甘えさせてやっても良いのではないかと思うのだ。


 辰史という弟は、その名を得た経緯からして特殊だった。
 辰史が生まれるほんの少し前に従弟の辰季が死んだのだ。秋寅の敬愛する従兄である丑雄の弟として丹塗矢家に生まれた彼は、人間の業と力と、そして金とを糧に成り上がったこの一族に生まれたとは思えぬ程に純粋で愛くるしい少年だった。
 無愛想ではあるが生真面目で面倒見の良い兄は勿論のこと、一族の大人たちも辰季のことを可愛がった。可愛がらずにはおれなかった。ただ一人、一族の業の深さを知る祖父だけはそんな穢れのない末孫の姿を見る度に憂いを帯びた表情をしたが、それでも「おじいさま!」と呼ばれれば口元を緩めて微笑んだものである。
 特別、体が弱かったわけではない。
 病を患っていたわけでもない。
 その辰季が何故死なねばならなかったのか、当時まだ六つであった秋寅は知らない。もしかしたら丑雄は知っているのかもしれないが、聞いたことはない。
 ただ、これだけは知っている。尊は周りが悲しみに暮れる中――喪も明けぬうちに、華緒の胎内から生まれ出ようとしていた赤児の名を改めねばならぬと言い出した。他の大人が、

「それはあまりに、丹塗矢への思いやりを欠いた発言である」
「もう華緒の子には〈巳〉の名を与えているはずだ。それを後から〈辰〉に変えるというのは赤児の運命を歪めてしまうのではないか」

 等々と騒がしく議論していたのを秋寅は聞いている。姉の初子は母親につきっきりであったからそういった声を知らぬであろうが、卯月などはそれを聞く度に、

「御祖父様もとんだ論争を引き起こしてくれたものだ」

 そう煩わしげに顔を顰めたものだった。
 ――結局のところ弟の名は祖父の希望通り〈辰史〉と決まった。

 皮肉なことに、実の弟であった辰季よりも顔の造りの似た辰史のことを、丑雄は未だ受け入れられずにいるらしい。辰史も幼いながらに歳の離れた従兄の態度が余所余所しいことを感じているのか丑雄には近寄ろうともしなかった。
 そもそも、巳から辰への変化を経て生まれてきたわりに、辰史は大人しい。少し怖い話をして脅かしてやれば祖父の布団へ潜り込むほどに、恐がりでもある。
 祖父曰く、

「それは己の潜在能力に怯えているからだ」

 と、いうことらしいが本当のところは判らない。
 しかし、仮に辰史が自分など足元に及ばぬ力を秘めていたとしても、今のところは一族一無力で素直な、ごく普通の幼子に過ぎないではないか――というのが秋寅の正直な胸の内であった。



 すっかり食欲を失ってしまっている辰史は、声をかけられてようやく我に返ったようにはっとして秋寅を見上げた。

「とらにいさま」
「卯月はもう食べ終わって部屋に戻ったよ。ほら、辰史も早く食べないと、味噌汁なんかすっかり冷たくなっちゃって。新しいの、持ってきてやろうか?」

 幼い弟はすっと視線を落として首を左右に振る。

「いりません」
「どうして?」
「食べたくないんです」

 食べなければ体に良くない、と言っても珍しく辰史は頑なに拒否をして匙を卓袱台の上へ下ろすと椀ごと遠くへ押しやってしまった。
 ――どこか体の調子でも悪いのだろうか?
 右手を辰史の額へ、左手を自身の額へと宛ててみるも却って自分の方が体温が高い。秋寅は困ったように弟を見下ろして問うた。

「何でご飯が食べたくないのか、お兄ちゃんに教えてくれないかな。辰ちゃん」



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