その日の夢も、変わらずであった。
狭い世界。
暗い部屋。
壁へ伸びる濃い影。
彼女の肌の白だけが唯一視界に入る色であったが、黒い世界の中でその白は酷く病的に見えた。彼女の真正面に立ち尽くした侭、辰史はぼんやりとその旋毛を見下ろして滲みそうになる涙をぐっと堪える。
――ああ、泣かないで。
届くことのない言葉を何度も呟きながら。
触れることのできぬ手を何度も伸ばしながら。
顔を近づけて赤い瞳を覗き込む。
不思議であった。
日本人の典型的な虹彩の色は濃褐色――ブラウンである。少し明るくて、鳶色をしている。日本人であると限定をしないのであれば淡褐色、琥珀色、緑色に灰色、青等々も見られるが、彼女の瞳はそのどれとも違う。
希少種でいえば、アルビノを患った個体が青紫色の瞳をしており、また膨大な量の色素欠如によってアルビノよりも更に少ない割合で赤の虹彩を持つ個体も存在するというが、彼女はそれらとも違うようであった。
瞳以外は、一見して変わったところが見られないのである。
髪の色は辰史と同じ。肌も闇の中で白さが際立ってはいるが、血管が透ける程ではない。顔立ちも、日本人のそれである。何より、彼女の瞳の赤は色素の欠如とはまた違うように見えた。
――深い、闇の赤。
実に矛盾した言葉であるがそう言い表す他はない。
赤、紅――鮮やかなはずのその色は、けれど覗き込んだ者を不安に陥らせる程に深い。
嗚咽に白い喉が引き攣った。
下目蓋へと溜まった涙がつ、と頬を滑り落ちて闇色の床へと消える。その顔は絶望を湛えながらもどこか諦めを含んで冷たい。
引き結ばれた桜色の唇が、その時僅かに動いた。
「……!」
何度も夢に見ながら、それは初めてのことであった。辰史は思わず身を乗り出して、唇から紡がれる言葉を目で耳で、聞き取ろうとする。けれどそれはほんの刹那の出来事で、彼女が何を言ったのか辰史が理解するよりも早く唇は再び貝のように閉じられてしまった。
再び、沈黙。
嗚咽すら止んで、世界はひたすら無音の闇である。
もどかしく思いながら、辰史はじっと女の顔を見つめ続ける。魅入られたように、夢から覚めても忘れぬように、ただ手を伸ばすこともなくずっと――
胸の内にはじんわりと、感情が広がる。
母に抱くもの、祖父に抱くもの、兄や姉に抱くものとはまた違う。その似て非なる感情は、まるで泣き出してしまう寸前に胸の辺りでぐるぐると渦巻く哀感をもって、辰史に息苦しさを与えた。
辰史は幼い唇から密やかに吐息を零す。
――かなしい?
――せつない?
――くるしい?
(いいや、違う)
何故なら、辛いわけではないのだ。眺めることしかできぬ己の境遇を辛く思うことはあれど。
幼い頭ではまだその感情を理解することができずに、辰史は首を傾げた。己の胸の内を表す的確な言葉が見つからぬもどかしさに眉をひそめながら――けれど、体だけは少年の心情を酌んだかのように、自然と動いていたのだ。
気付けば、女の顔がすぐ目の前にある。
その瞳の中へと自分の姿が映らぬことを悲しく思いながら、少年は更に顔を近づけた。押されれば――押されずとも意思一つで、口付けをしてしまいそうな程にその距離は近い。
己が何の感情に突き動かされているのか、判らぬままにそっと唇を重ねようとした少年であったが、ほんの一ミリほどの――空間とは言えぬ空間を間に残した距離でびくりと体を強張らせた。
視界の端に、〈何か〉が映った。
気付かぬふりをしてしまうことのできぬ〈何か〉である。
眼球のみを動かしてその正体を確認しようとした辰史は、彼女の後ろへと〈それ〉を捉えて恐怖に顔を凍り付かせた。全身から冷や汗が吹き出る。何を考えることもできなかったが、本能が危険だと告げるままにやはり体が先に後ろへと飛び退いた。
重なるほどに近かった距離が、一瞬のうちに遠くなる。
壁際へぴたりと張り付いて、威嚇する彼女の影――人の姿ではない。獣の形をしている――と見つめ合いながら、辰史はぼんやりと理解した。
先まで容易く伸ばしていた腕は、戦慄きに震えて前に出すことができない。
辰史が離れたことを確認し、安堵したかのように影はすっと退いていったが、辰史はその場から動くことができないのである。
――ああ、ああ、ああ!
近づけば良い。
ただの夢だ。祖父も言っていた。
これはいつか出会うべく彼女との、ただの夢だ。
少年がごくり、と喉を鳴らして恐怖を飲み下そうとした瞬間――女の顔がふっと上がった。感情を映さぬ瞳が少年を真正面から見つめていた。唇が再び薄く開く。無音の中に、言葉が響くことはない。唇が何か言葉を紡ぎたがっているのとは裏腹に、彼女の顔は、瞳は、物を言うことが無駄であると悟りきっていた。辰史など映さぬ瞳は、幼い少年に何を求めてもいなかった。
そんな彼女の後ろで影が揺れる。
もう一度だけ、獣の姿を形作った彼女の影は、顔にあたる部分へ彼女のものと良く似た赤い瞳を作って辰史を見下ろした。心なしか笑んでいるようでもある。その理由に気付いた瞬間、辰史はカァっと羞恥心に顔を赤く染めた。
影は知っている。己が恐怖に動けぬことを知っていて、嘲笑っている。
――できるさ。お前は辰の子だからね。
――ならば、俺は龍になろう。あのひとのために。
祖父の言葉と、幼い決意が音を立てて崩れる。
(何が辰の子だ。何が、龍だ)
見下ろした掌は、震えていることだけが原因ではなくぼんやりと歪んで見えた。
「なんで、泣いているの。何が悲しいの」
彼女に発した問いの答えは簡単だった。それを少年は身をもって知った。
――夢の中でさえ、誰も彼女の手を取ることがないからだ。
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