それは、黒の記憶だった。
世界は墨で塗りつぶされたかの如くの、黒だった。明かりの射す窓も無い。扉も無い。四角い闇の中に、膝を抱えて蹲る女の姿だけが在った。白の腕が闇にぼんやりと浮かび上がる。顔は膝へと押しつけられて、表情は見えない。ただ時折嗚咽が零れ、腕を強く掴む指先が小刻みに震えていた。
背後の壁には闇よりも猶一層濃い、影が伸びる――
悲しく切なげな音は少年の心を打つ。
〈彼女〉はいつでも独りそこへと蹲っていた。そこがどこであるのか、少年には判らない。また、〈いつでも〉というのは厳密に言えば正しくない。〈少年が見ている時にはいつでも〉で、ある。
少年はその場所で佇んで、蹲る〈彼女〉の白いうなじを眺めていた。
――あなたは、だれ？
何度そう問いかけただろう。けれど声は常に少年の胸の内へと反響するのみで音になることは決してなかった。少年はそのたびにもどかしげに小さな掌を握りしめ、唇を噛みしめた。
少年は夢を見る。
巳を背負うはずだった少年だ。
ひとつ順番が繰り上がって、巳を負うはずであった少年は辰となった。巳と辰とは多くの共通点を持っている。元々龍というのは中国に於いて信仰をされていた神獣である。それが日本の蛇神信仰と結びつき、民間に於いて水の神として信仰を集めるようになったと言われている。
一方で蛇もまた、「おろち」や「みずち」として伝説の中で深く水と関わってきた。おろち、みずち等の「ち」とは霊物の霊（ち）・神秘な血、乳、地、命の「ち」と同義語であり、さらに「つち」とは長虫の形貌の神霊を指し、或いは槌、椎形の御霊代を観想するに至る。よって、「つち」とは蛇形霊を表す。雲雨雷電、雨水に関する神霊は蛇体とみられ、そもそも「みずち」――蛟は、蛇体に四肢を有した龍なのだとも言われるから、巳と辰との関わり合いの深さが窺えるというものである。
で、あるから少年が生まれる際に、一族のほとんどの者は巳を負う運命にあった少年を辰とすることを危ぶみ反対した。それでも、一族の中で最も発言権を持った、本家の当主――三輪尊は「辰だけを飛ばすことはできぬ」と生まれてくる赤子の名を決定してしまったのであった。
――少年の名は、辰史。
辰史は良く夢を見る。
闇の中で女が一人、膝を抱えて泣いている夢だ。
夜の闇より猶暗い、黒く狭い世界は酷く不明瞭であったが、その場所で〈彼女〉の存在だけは明確であったのだ。闇へと浮かび上がる肌の白は、幼い辰史を酷く落ち着かない気分にさせる。優しい夜空のような色をした髪へは思わず手を伸ばしたくなる。触れればさらりとして気持ちが良いのだろう。そんな風に思わせる〈彼女〉へと、しかし辰史は未だに触れたことがなかった。
目の前に在りながら、それが夢であるのだと見せつけるかのように伸ばされた辰史の手は〈彼女〉をすり抜ける。ほんの少しでさえ触れることはできない。
怖いのか？
悲しいのか？
蹲る〈彼女〉の震える肩へと触れて「どうして泣いているの」と訊いてやりたいのに、辰史にできることといえば、〈彼女〉の目の前まで近寄ってその白いうなじを見下ろすことだけであった。
それでも諦めることが出来ずに、手を伸ばす。するり、と肩をすり抜ける己の掌のなんと小さなことか。取るに足らぬ望み一つ叶わぬ絶望に、辰史はすん、と鼻を鳴らした。
――どうして。
（ぼくはなにもできないのだろう）
大好きな祖父は、辰史を膝の上へと乗せて「お前は特別な子なのだよ」と誇らしげに言うが、辰史にはその意味が判らない。己の内に人とは違う何かが眠っているのだと感じることがないわけではないが、自由に扱うことの出来ないその〈何か〉は幼い辰史にとっては恐怖であり腹立たしいものでもあった。
――どうして。
特別であるというのなら、何故自分は目の前の〈彼女〉へと触れることができないのか。
――どうして。
「泣かないで」と、簡単で気の利かないその一言すらかけてやることができないのか。
掌を握りしめる。視界の中の白がぼんやりと滲んだ。すんすんと鼻を啜る己の情けなさに一層悲しくなって辰史はぽろぽろと涙を流す。
――ねえ、
堪らなくなって、辰史はぺたりと漆黒の床へと両膝をついた。そうして覗き込むことで、呼びかけることも触れることもできぬ辰史はようやく〈彼女〉の顔を見ることができた。
視界に飛び込んでくるのは、深い紅だ。
長い睫に縁取られた眸。血よりも深い紅の瞳と見つめ合ったところで、目を覚ますと必ず頬が濡れている。
その日も変わらず、そうだった。
胸が締め付けられるような痛みを訴えている。ぱちぱちと眸を瞬かせれば、はらはらと涙が零れた。
（くるしい）
切ない。触れたい。その、涙を拭ってやりたい。声をかけて、泣いている理由を問いたいと思うのに、できない。
（どうして、）
たかが夢に、これほどの苦しみを覚えるのかが判らずに辰史は首を傾げた。泣いていたのだと兄や姉に知られればからかわれるのは目に見えているから、すぐに冷水で顔を洗って目を冷やす。熱を持った瞼に、ひんやりとした感触が心地よくてしばらくそうしていれば、背後から「辰史？」と怪訝そうに己の名を呼ぶ声が聞こえた。
低く堂々として、老いを感じさせないその声が辰史は好きだった。祖父――尊の声だ。辰史は慌てて顔を跳ね上げると手近にあったタオルへ顔を押しつけて踏み台から飛び降りる。
「おじいさま、おはようございます！」
「ああ、お早う」細められた祖父の眸に訳もなく安堵を覚えて胸を撫で下ろす。見上げれば深い黒の瞳が優しく見下ろしている。
「怖い夢でも見たか？」
柔らかな表情のままでさらりと唇から紡がれた問いに、辰史はどきりとして思わず眸を大きくした。そうして反応してしまってから、誤魔化すことが不可能になってしまったことに気付いて僅かに顔を歪めれば、尊は歳のわりに皺のすくない、骨張った大きな手を辰史の幼い頭へと伸ばした。
くしゃり、と撫でられて辰史は眸を細める。一瞬だけ瞼の裏に〈彼女〉の姿が浮かんだ。
――ぼくも、
〈彼女〉の頭をそうやって撫でてやることができたのなら――〈彼女〉は顔を上げるのだろうか。泣き止むのだろうか。悲しそうな瞳を、自分のように微笑ませるのだろうか。考えれば考えるほどに胸の奥が震える。何も出来ぬ自分を目の前へ突きつけられて、再び目頭の奥がつんと熱くなる。
「ゆめを――」
「うん？」
「夢を、見るんです」
辰史は祖父の瞳をじっと見上げながらやっとのことでその一言を口にした。
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