僅かに欠けた月が中空に浮かぶ夜だった。
 切れ掛かった街灯がジジ、と音を立て点滅を繰り返す。防護柵に寄りかかって男はその真円ではない月を眺めていた。唇からは時折歌が零れる。


 十五夜お月さま ひとりぼち
 桜吹雪の 花かげに
 花嫁すがたの おねえさま
 俥にゆられて ゆきました


 傷んだ茶髪は後ろで括られて、生暖かい風にふわりと靡く。
 丸い黒の遮光眼鏡を指でぐ、とずらして男はしぱしぱと眸を瞬かせた。

 三輪秋寅は三輪家の長男である。
 大学を卒業した後はとある男に師事し上海へと渡り、現在は彼の地でそれなりに名の通った調薬士として暗躍中である。一族の小煩い老人等は「一族の長たる三輪家の長男が良い歳をして国外で遊び歩いているというのは云々」と会う度に苦い顔をして説教をしてくれるものだが、秋寅は今のところ上海の店を畳み実家暮らしの身に戻る気は全くない。
(つうかさぁ、戻っても無駄って言うか)
 次期当主の座に兄弟のうちの誰が納まるのかはまだ明らかにされてはいなかったが、現当主である父親は高血圧ながらも未だ健在であり、そうして実力を重視するならば父の跡を継いで三輪家当主にとなるのは末っ子である辰史なのではないかと秋寅は考えている。
(何より、じいさんがそれを望んでいたからな)
 ならば戻るだけ無駄というものだ。秋寅は口の中で呟いて肩を竦めた。
 辰史が生まれ、そうして兄弟の中でもずば抜けた才能を示す以前までは、秋寅にも自分が将来三輪家当主の座を継ぐのだという使命感がないわけでもなかった。鬼才と呼ばれ、威厳ある祖父のような人間になることを目指していた、と言っても大袈裟ではないかもしれない。尤もその幼い夢は、辰史という特殊な事情を経てその名を得た弟が生まれたことにより容赦なく破られてしまったのではあるが。
(まあ、己の才能の無さを自覚するには良い時期だったんだろうけどな)
 生来ポジティブである秋寅は、現実に絶望するでもなく「それなら好きなことをやろう」と調薬士を志した。妹が口寄せという市子の才能を持って生まれたように、秋寅も三輪の人間として調薬のセンスと絶対的な感覚だけは生まれたときから持ち合わせていたからだ。




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