「末永崇之が、」
「ああ。判ってる。そんなことだろうと思ったよ」
がりがりと頭を掻きながら、辰史は面倒くさそうに舌打ちをした。
傍らにあった携帯を取り、一つの番号を呼び出す。――天月比奈、とディスプレイには文字が浮かぶ。早朝であるのに、数コールの後に受話器からは「あ、辰史さん。お早うございます」と、天月比奈の澄んだ声が聞こえた。
「朝早くに悪いな。急なんだが、」
「大丈夫ですよ」
「一昨日あたりに太郎をやったろ。その届け先に回収と、後でメールで送る住所へ配達。頼めるか?」
「はい、承りました」
快諾する比奈の声に、そのにこにこと笑う顔を思い浮かべて辰史は唇を緩める。
「お仕事、大変そうですけど体を壊さないでくださいね」
「それは業務用か?それとも、本当に俺のこと心配してくれてんのか?」
意地悪く訊き返せば、たっぷりの間をおいて小さく「業務用なはずが、ないじゃないですか」と返ってくる。比奈はきっと顔を真っ赤に染めて、携帯に向かって声を潜めているのだろう。
想像して笑えば受話器からは「辰史さん、」と。恨めしげな声が響いた。
「意地悪なこと訊いて悪かったよ、比奈ちゃん」
「いえいえ。辰史さんが意地悪なのは、今に始まったことじゃないからいいですよ」
「そう言うなって。仕事片付けて今夜辺りにでもそっちへ行くからさ。飯、作って待っててくれよ。なあ、比奈」
今頃は階下で朝食の支度をしているであろう、甥の太郎が聞いたらどんな顔をするだろう。相手の顔も見えないのに、極上の笑みを浮かべ甘ったるい声で囁く辰史の姿は異様である。辰史を知る者の殆どが、何かの凶兆ではないのかと驚き危ぶむに違いない。
そうして、同業者――というよりは恋人との通話を終えた辰史は布団の中から這い出すと、うん、と伸びをした。そろそろ太郎が自分を起こしに来る頃だろう。もう起きていると知ったら驚くか、それとも「仕事」がまた良くない方向へと流れたのだと察して苦い顔をするのか。
(俺だって毎回警告はしてやってるってのに)
「やれやれ、人間ってのは罪深い生き物だな」と呟いて辰史は机の上へと手を伸ばす。無造作に置かれていた通帳を開けば、新しく二件。振り込まれた額が正しいものであることに満足して、辰史はそれを引出しの中へと仕舞った。
***
――昨夜未明、××区にある木造アパートの一室が焼け、部屋に住む男性が焼死体で発見されました。燃えたのは男性の住む207号室のみで、原因は不明。
女はテレビから流れてくるニュースに耳を傾けていた。アパートが映る。あの男が住んでいた―― 一度も、自分には明かしてくれることのなかったアパートだ。画面の下の方には小さく写真が載り、その隣へ男の、やはり自分には明かしてくれることのなかった本名が載せられている。
眺めるうちに、何となく、胸の奥が痛んで女はぱちん、とテレビの電源を落とした。テーブルの上へと視線をやれば、そこには赤い装丁の本が一冊置かれている。昼頃に届いた本だ。表紙には炎が踊るような金色の文字で「道成寺」と捺されている。誰の手で届けられたのか、女には判らない。包みにも日付以外はない。ただ、白と黒の狐が円を描くように配置された印のみが押されている。
――あの、報復屋の男が届けたのだろう。
女は漠然と、そう思った。通帳には女が男に騙し取られた金額と同じ、500万が振り込まれている。
――業を背負う覚悟があるのなら、
最初に報復屋が言った言葉を、女は思い出した。この本こそが自分が背負った業なのだろう。金は返ってきたが、男は帰ってこない。復讐を遂げることはできたが、胸の内は以前よりも重く、苦しい。
何気なく頁を開く。そこには、大きな鐘に巻き付き火炎を吐く大蛇の押し絵が、描かれていた。
***
暗い、暗い、暗い。
清姫は嘆く。どうして、「また」――
「安珍様、」
愛おしい男の名を呼ぶ。何度も、何度も、呼んでは、その姿を見失った。次こそは想いを遂げたいと願うのに、気付けば腕の中に愛おしい男の姿はない。
「何故、何故、」
判らない。ただ、失うたびに狂おしい程の想いが、一層清姫の身を焦がした。
何が悪いというのだろう。清姫は自分の姿すら見えない闇の中で疑問を繰り返す。ただ、自分は、安珍と結ばれたいだけなのだ。約束を交わしてくれた、男と。想いを遂げたいだけなのに。何故――
日高川を泳いで渡った、体は疲れ果てている。岸はすぐのように見えたのに、なかなか辿り着くことができなかった。次第に泳ぐ力も尽きて、水に沈みかけた時に自分の手を引く者がいた。
それが誰であったのか、清姫には判らなかった。頭と目を覆うように布を巻いた男は、清姫の体を水中から引き上げると一点を指さして罅割れるような声で「契約は破られた」と、やはり清姫には意味の判らぬ言葉を口にした。
けれど、何となく。
男の指さした方へと歩いていけば、一つの鐘が見えた。鐘楼へと続く階段を、清姫はゆっくりと登った。ぎしり、ぎしり、と大分古びているようである階段は不快な音を立てる。鐘楼には七つの、鐘がかかっていた。201、202、203・・・鐘には文字が刻まれている。けれど、どれも違う。最後――207と刻まれた鐘をじい、と見つめ、その下へと視線を落とす。手で触れれば、温かい気がした。心なしか薄らと、それは青白い光を放っているようにも見える。
「此処に御隠れになられておりましたか、安珍様」
清姫はにい、と笑った。唇が裂ける。その体は既に蛇体と化している。容易く鐘に体を巻き付け、しっかりと、離さぬように七巻き半。愛おしい男に、自分の存在が判るよう、尾で鐘をゴッゴッと叩けば中から驚いたような、怯えたような男の声が響いた。
「愛おしや、安珍様。恨めしや、安珍様」
言の葉は火焔となって、鐘を溶かす。そこから先の記憶がない。ただ、再び清姫は暗闇の中にいる。あんなにもしっかりと巻き付いたはずなのに――安珍の姿どころか、鐘さえ、無い。
「安珍様、清は疲れ申した」
清姫は嘆息する。愛おしい、愛おしい、恨めしい。想いは胸の内を渦巻いている。けれど、今は酷く疲れていた。
(少し、眠らせてくださいませ。安珍様)
闇の中で呟いて、清姫は眸を閉じる。意識は深くへ沈み、そのうち完全に闇と同化した。
――大鐘、蛇ノ毒熱ノ気ニ被焼テ炎盛也。敢テ不可近付ズ。然レバ、水を懸テ鐘ヲ冷シテ、鐘ヲ取去テ僧ヲ見レバ、僧皆焼失テ、骸骨尚シ不残ズ。纔ニ灰許有リ。
-了-