「どうなさいました」

 人間だ。人間の、男だ。
 歳は崇之よりも若いだろうか。黒い僧服の上から袈裟を掛けている。黒髪を後ろへ撫でつけた男は、有髪ではあるが僧なのだろう。それにしても、男からは僧らしからぬ不遜さが滲み出ていたが、この際そんなことを気にしてはいられない。

「化け物に、追われてるんだ。助けてくれ」
「化け物、ですか。それは大蛇の姿で?」
「あ、ああ」

 頷いた瞬間に、男は唇の端をにい、と吊り上げ眸を細めて笑った。

「あんた、相当女を騙してきたな」
「なっ、」
「女の執念は蛇に姿を変えて、男を食い殺すとは有名な話だ」

 男の口調が、唐突に変わった。はらり、と落ちた前髪をぐい、と後ろへ撫でつけながら男は傲慢な瞳で崇之を見下ろす。

「一度だけ、助けてやる。勿論、無条件じゃァないが」
「あ、ああ」

 ――命が助かるのならば、この際何でもいい。
 男の態度にむっとしないでもなかったが、崇之は慌てて頷いた。まずは命にかかわるこの状況を、なんとかするのが先である。そんな崇之の目の前に、男は一枚の紙とペンを差し出す。
 どうやらそれは、契約書のようである。
 内容に視線を走らせていた崇之は、そこへと書かれた金額に目を瞠った。契約料は一千万。思わず「何だ、これは!」と声を荒げる崇之に男は小馬鹿にするように、ふん、と鼻を鳴らして笑った。

「地獄の沙汰も金次第」
「何・・・?」
「あんたがその金額を俺に支払って、そこに書かれている誓約を守るのが互いの為にも一番だってことだ。あんたが稼いだ金額からすりゃァ妥当だろう」

 ――こう見えて、俺は良心的でね。


 恐らくは、金で命を助けてやることが、という意味だろう。僧の姿をしているくせに、酷く強欲な男だと、内心で思って苦い顔をしながらも崇之は迷わず契約書にサインをする。
 確かに、一千万で命が助かり、日常を取り戻すことができるようになるならば安いものだった。
 契約書を男へ返せば、男は抜け目なく不備がないか確かめて「いいだろう」と頷くと崇之へ一冊の本を渡す。崇之は、その本に見覚えがあった。血のように赤い装丁をした、本。輝く金色の文字で「道成寺」と捺されたその本は、崇之のアパートのポストへと入れられていたものと同じだった。
 ただ一つ、違っていたことは本の裏へと二枚の紙が張り付けられていたことだ。一枚は何やら、札であるらしい。もう一枚は――

「契約書の控えだよ。あんたが契約を破らないという条件の下で、この契約は成り立っている。破った場合、あんたに何らかの危害が加えられたり損失が生じたとしても、俺は金を返さないし責任は一切負わない。ただ、この場合は俺にあんたとの契約代行を依頼した本来の契約者が業を負わなければならなくなる。まあ、要は契約を破るんじゃねえぞ、という話だ」

 男は面倒くさそうにそう言った。崇之は本を受取りながら、頷いて見せる。



 ***



「あ・・・」

 末永崇之は、ハっと我に返った。
 慌てて周りを見回せば、そこはいつもの駅前である。狭い空、灰色のビル、無表情で行き交う人々。寺などなければ、目の前で偉そうに自分を見下ろしていた僧の姿も無い。蛇の化け物も、いない。
 見慣れた光景に、崇之は胸を撫で下ろす。

「塚田さん、待った?」


 偽名で呼ばれて、崇之は振り返った。首を後ろへ廻らせようとした時、ちらりとあの化け物のことを思い出して、どきり、としたが、視線を向けた先にいたのは化け物ではなかった。セミロングの髪を茶色に染めた、女が走ってくる。普通の、女だ。
(夢だった、のか)
 ――だとすれば、俺にも良心なんてもんがあったのかもしれねえな。
 思いながら、何だかそれが酷く可笑しいことのように思えて崇之はけらけらと笑った。女は不思議そうな顔をして、崇之を見つめる。

「なんでもねえさ。行こうぜ」

 ――あんたが契約を破らないという条件の下で、
 不意に、あの、腹の立つ男の声が脳裏に蘇った。
(けど、夢の中での契約なんか、無効だろ)
 「馬鹿馬鹿しい」そう、呟いて崇之は女の腰へと腕を回す。耳元へ甘く囁きながら、

「ねえ、そういえば俺、今度お前の家の近くに引っ越そうと思ってるんだけど・・・」



 ***


 三輪辰史は、溜息を零した。
 早朝、である。気持ち良く寝ていたところを、窓ガラスを叩く音で起こされたのだ。

「ったく、」

 目をこすりながら、辰史は欠伸を一つすると、指をぱちんと鳴らした。枕元にあった一枚の人型をした紙がふわりと浮いて、隻眼の青年の姿になる。

「屍、」

 辰史が気だるげに呼べば、屍と呼ばれた青年は無言で頷いて窓を開けた。一羽の鴉が舞い降りる。屍――屍喰は喉の奥から声を洩らした。人の声ではなく、鴉のそれである。
 ひとしきり、ギャアギャアと会話を交わした後に、鴉は飛び立ってゆく。窓を閉めてくるり、と振り返った屍喰は唇を開いた。そこから紡がれるのは、今度は人の言葉である。



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