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稲荷運送――
その営業所は蛟堂よりも太郎の通う大学のキャンパス寄りにある駅近くに存在する。ビジネス街の狭い通路を縫うように、原付を走らせた太郎は一件の黒いビルの前で止った。その建物は真新しい、大きなビルとビルの間にひっそりと建っている為、目立たない。
入口は自動ドアではなく、重々しい焦茶色をした扉である。関係者でもなければ中を覗いてみようという気にはならないだろう。太郎は原付から降りると、その扉を開くことはせずにビルとビルの間――狭い空間に無理に作られたような銀色の螺旋階段を登った。
足音を立てようとして歩いているわけではないのに、かつんかつんと思いの外大きく音が響いてしまうことに眉をひそめて、けれど、別にやましいことをしているわけではないので敢えて潜めることもせずにそのまま登り切れば、銀色のドアが一枚。ガラスの部分には、白と黒の狐が一匹ずつ、太極を描くように位置したロゴシールが貼られている。その下には赤の文字で――稲荷運送。
太郎が「すみません、」と声をかける前に、まるでその来訪を察知したかのようにドアは内側へとひとりでに開いた。
「比奈さん、いますか?蛟堂の太郎ですけど」
ビルの外観からすると、意外と思われる程に中は明るい。
「あ、太郎くん。いらっしゃい」
白い廊下の奥、左手にあったドアから一人の女が顔を覗かせた。――若い。艶やかな黒髪が、肌の白さを際立たせている。涼やかな目元の清楚な美人だ。
「用件は辰史さんから電話で聞いてるから。こっちの部屋へどうぞ」
女――天月比奈は、にこりと笑ってそう促した。
太郎が蛟堂に預けられる以前から、辰史とは付き合いがあるらしい。辰史だけでなく幻影書房の店主、鬼堂六とも知己の仲である――というのは、この稲荷運送が運ぶ対象が「そういった」性質を持つものである為だ。
比奈が経営するこの稲荷運送、営業所は小さく従業員も少ないが、そのような理由からこの業界では有名であったし、重宝もされていた。「他の方は、」と問えば「回収と配達に行ってるから、今はいないの」という返事が返ってくる。
「忙しい時に来ちゃったんですね。すいません」
「太郎くんが謝ることないでしょ?それに、辰史さんにはお世話になってるし。あ、今お茶淹れるから、座って。それともコーヒーの方がいい?」
言って、比奈は奥――簡単なキッチンになっているらしい――へと湯呑と急須を取りに行く。すぐに目の前に用意された茶と菓子に、
(叔父さんとは大違いだ)
家事(こういったことを家事と呼ぶことができるかどうかは甚だ疑問であるが)の類は一切自分ですることのない叔父は、客に自分から茶を出すこともしない。あっても、太郎に出させることが多かった。比較して――驚くほどのことでもないはずなのに――少しだけ感動しながら太郎は湯呑へと手を伸ばす。
「いえいえ、むしろこっちが比奈さんにお世話になりっぱなしというか…」
こうして持ち込めば、比奈はいつでも特別待遇で優先して荷を運んでくれるが、比奈が蛟堂に顔を出したことは太郎の知る限り一度もない。荷の持ち込みをするのも大抵が太郎であったから、比奈と辰史が顔を合わせることなど殆ど無いだろう。
その叔父がどう比奈の力になるというのか。とても比奈の言葉を信じる気にはなれずに太郎は更に申し訳ない気分になる。
――この人は叔父さんに何か弱みを握られているんじゃないだろうか。
(十分にありうる。と、いうか、人の好さにつけこまれてるんだ。きっと)
可哀想に。僕に力がないばかりに、叔父さんを止めることができなくてすいません――太郎は湯気の立つ緑茶を啜りながらハァ、と溜息を零した。
太郎にそんな謝罪をされているとは知らない比奈は、太郎がデスクの上に置いた紙袋を手に取って、既に重さを量っている。
「これくらいなら、御霊で大丈夫かな」
――御霊、
比奈が呼びかけると、太郎の足元にふ、と濃い影ができた。
影は次第に形を取る。それは、大きな狐に見えた。瞳の部分は濃い赤をしている。比奈は屈みこむと、その狐の形をした影の前に荷を差し出して、もう片方の手で額を撫でた。
御霊――みたま――と名付けられたそれは、比奈の使役する黒狐である。否、使役というのは少し違うかもしれない。御霊は、比奈に「憑いて」いる。
太郎はその仕組みについては詳しく知らなかったが、比奈が狐憑きであるらしいことは辰史から聞いて知っていた。最初に御霊を見た時には驚いたものだが、何度も足を運ぶうちに慣れてしまった。いつもと同じように唐突に現われたそれに驚くこともなく、「御霊、」と比奈と同じようにその名を呼べば、影はちらりと太郎を振り返りごろごろと喉を鳴らしたようだった。
「これ、お願いね」
主人の言葉に影はキィっと一声甲高く鳴くと、紙袋に包まれたその荷を飲み込む。影は次第に薄くなり、最後は空気に溶け込むように掻き消えた。まるで最初から何もいなかったかのように、その場には毛の一筋も残らない。
比奈は太郎へと向き直った。
「すぐに届くと思うから。御霊が帰ってくるまで待ってる?」
少し考えて、太郎は首を左右に振った。御霊が運んだのならば、荷に関する心配は必要なかったし、あまり遅くなると辰史がうるさい。勿論太郎を心配して、というわけではない。いつも急な頼みごとをしてばかりだという引け目でもあるのか――これは、太郎の勝手な想像であったが。辰史は太郎が稲荷運送に長居することを好まなかった。
「いえ、帰ります。夕飯の支度もしなきゃならないし」
「そっか…太郎くんも大変ね」
およそ男子大学生の言う台詞ではない。比奈はそんな太郎に曖昧な表情でそう言うと「ちょっと待ってね」と部屋の奥へ再び姿を消した。
「これ、良かったら辰史さんと二人で食べて」
すぐに、また太郎の前へと戻ってきた比奈の手には白い紙袋が提げられている。稲荷運送のロゴの入った、その紙袋を受取りながら太郎が中を覗けば、中身は銀色の弁当箱である。
――比奈自身の弁当ではないのだろうか。
「良いんですか?」と驚いて、問う太郎に比奈は肯きながら苦笑を零した。
「十間くんの夕飯に、と思ったんだけどね。十間君ってば『また稲荷寿司ですか、比奈さん』って嫌そうな顔するから――あ、中身は五目稲荷なの。お供え物に作ったら、ちょっと作りすぎちゃって」
十間――十間あきらは、稲荷運送の従業員の一人だった。従業員、と言ってもまだ見習いに近いが。稲荷運送のマスコット的存在である、自分より年下の、吊り目の青年の顔を思い出して太郎は小さく笑った。恐らくは、本心からそう言ったわけでもないのだろうが、
「有難う御座います、比奈さん」
それはそれ、で別の話だ。
好意は有難く受け取るに限る、と、青年の素直さでというよりは主夫の強かさでそう思いながら、太郎は比奈の手から紙袋を受取り、椅子から立ち上がった。
(さて、これで後はおかずの買い出しだけか。五目稲荷には何が合うかな)
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