「太郎ちゃん、だいじょぶか?」
「まあ、慣れてるけどね」
「あんま危ないことはするなよ」
「瑠璃也がそれを言うか?」
「俺の場合は不可抗力なの。巻き込まれるだけなの!」

 お互いなかなか難儀な星の下に生まれてしまったらしい。だからこその、無二の友なのか。本を受取って、太郎は幻影書房のドアを引いた。外へと足を踏み出そうとした瞬間に、追ってくるように瑠璃也の声が背にかけられる。

「あ、三輪さんに鬼堂さんから伝言」
「何?」

 太郎は顔だけで振り返った。

「うちの子をあまり悪事に使わないでくださいねって」
「…一応伝えておくよ」

(多分、顔を顰めるだけなんだろうなぁ)
 容易に反応が想像できる。そう、返して太郎は今度こそドアをくぐり、外へと足を踏み出した。蝶番がギィと音を立てて、ドアが閉まるのを背後で感じながら左隣へ視線を遣る――辰史は外の長椅子に腰を下して相変わらず煙草の煙を燻らせていた。


 ***


 辰史は、案の定「幻影書房」の店主からの伝言に僅かにその形の良い眉を顰めただけだった。眉間に皺を刻んだまま、不快、というよりどちらかと言えば不可解だといったような顔をして、呟く。

「悪事、とはまた人聞きが悪いねェ。立派な人助けだろうに」

 と、本人は全くの無自覚であるらしい。
(判ってはいたけどね)
 少しは自覚してくれた方が、世間の為でもあるのに。そう、溜息を零しながら無駄だと知りつつも、太郎は一応辰史の言葉を訂正する。

「叔父さんのは人助けじゃなくて金儲けだろう」
「勤労精神旺盛、だと言って欲しいもんだ。生活をするためにゆとりとその生活自体を犠牲にするという矛盾を孕んだ労働意欲、日本人の鏡じゃねえか」
「ただの趣味のくせに」

 それも人助けが、ではなく金儲けが、だ。
 珍しく遠慮の見られない甥の言葉にも、辰史は少しだけ愉快そうに眸を細めただけだった。

「太郎ちゃんにもそのうち判るさ。金の素晴らしさが。金より素晴らしいものなんてこの世には二つしか存在しないぞ」
「二つも存在するんですか!?」

 驚いて、太郎は思わず大声をあげた。まさか、この、何より金が好きな叔父が、金以上に賛美するものなどこの世に存在しないように思われた為である。


 辰史は、甥の驚きように心外だ、と言うように小さく鼻を鳴らした。けれど、それ以上の不満を押し止めたのは、この、姉に似て俗世の汚れに染まってはいない甘ちゃんな甥に、叔父として少しでも現実というものを教えてやろうと思い直したからに違いなかった。

「いいか、太郎。これは御祖父様の言葉だ。三輪家の男児として生まれたからには将来的に備えなければならぬものが三つある。一つは、金。何をするにも金は入り用になるだろう?RPGだって金がなけりゃァ装備を揃えられない。ラスボスどころか雑魚にも手間取るなんざ、スマートじゃねェ。外道と言われようが、圧倒的な力で完膚無きまでに叩きのめしてこそ、男ってもんだ。そういうわけで、二つ目は力だ。金と力はしばしば同列に並べられることがあるが、これは間違いじゃない。むしろ金と力が必要だと言う人間に眉を顰めて下衆だと呟く人間こそ、人生のなんたるかを判っていないただの負け犬だ。人間と言うのは恐ろしく嫉み深い生き物だからな」

 何故喩えがゲームなのだろう。
(判りやすいような、判り難いような…)
 普段の冷淡さはどこへやら、すっかり熱くなっている辰史に水を差すのも悪いと思いつつ、太郎は訊ねる。

「もう一つは?三つ、あるんでしょう?」

 しかし、辰史は太郎の問いにふっと我に返ったように、一瞬だけ決まりの悪そうな顔をして顔を逸らせただけだった。

「太郎にはまだ早ェよ。俺でさえ知ったのは二十四の頃だ」

 「それまで男を磨きなさい、」と、辰史は珍しく叔父らしい言葉で締めくくりながら携帯用の灰皿に煙草を押し付け立ち上がる。そうして、話を逸らすように、太郎の手の中へと視線を向け、

「道成寺、買ってきたんだろう?」
「あ、はい」

 促されるままに、太郎は辰史に本を渡した。
 血のように赤い装丁の、本を太郎から受け取った辰史は、唇の端をニィ、と歪めて――どうやら、笑っているらしかった。自堕落でやる気の無い叔父が、唯一生き生きとして見えるその一瞬が、実のところ太郎はあまり好きではない。
 細められた眸は、うつしよの人間が知らぬ何かを知っている。自分の見えぬ、何かを、見ている。どこの国の伝説であったか、確か相手の眸を見るだけで姿を石に変えてしまう蛇の化け物がいた気がするが、まさしくそのように、冷たい黒曜の瞳からは毒が滴っている。辰史は、赤い舌で自身の上唇を舐めて湿らすと、「太郎、」とぞっとする程に澄んだ声で甥の名を呼んだ。
 本の裏に貼り付けられていた、札を躊躇い無く破くと、いつの間に用意していたのだろう。紙袋の中にそれを入れて梱包し、再び太郎の手へと握らせる。

「末永さんちに、お届け物だ。電話はしてあるから、稲荷運送に持って行ってくれ」
「叔父さんは、どうするんです?」
「俺は、しばらくは高みの見物」

(全く、いい気なもんだ)
 式の屍喰――鴉の姿をしているが、実際はただの紙切れにすぎない――が舞い降りて太郎の肩へと止まる。辰史が自堕落である原因の一つともなっている、この式――辰史の手足の代わりとなって動く便利な式神を、火をつけて燃してしまいたい衝動に駆られながら、太郎はそれを堪えると代わりにやはり、溜息を吐き出した。

「若いうちから溜息ばっか吐いてると、禿げるぜ。太郎ちゃん」

(誰のせいだと思ってるんだ)
 にやにやと笑う叔父を、一度だけ睨みつけて、太郎はポケットの中から原付の鍵を取り出した。ヘルメットを被り、エンジンをふかす。とにかくこれさえ稲荷運送まで運べば、後は辰史の仕事だ。「早く行って、早く帰ってこよう」と胸中で決意して、太郎はアクセルを回す――





「行ってらっしゃい」

(少し、苛めすぎたか)
 もう、大分小さくなったその後ろ姿は、なんだか拗ねているようにも見える。
 辰史はあの、真面目でしっかりとした甥のことをどちらかと言えば気に入っていたのだが、あまりに自分とは違う性質であるが故に、からかってしまうことが多かった。――それは、少しだけ、太郎のことを羨んでいるからなのかもしれない。幼い頃から三輪家の中でも天才として育てられて自分とは、あまりに、違う。
(ま、俺の例があったから、姉貴はアイツにあんな名前を付けたんだろうけどな)
 眺めながら、辰史は苦笑するように呟いて店の中へと姿を消した。


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