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太郎にしてみれば、いい迷惑だ。
(よく言うよ。可哀想だなんて欠片も思ってないくせに)
ワイシャツを丁寧に畳みながら添付された資料にちらりと視線を走らせて、太郎は口の中で呟く。
――末永崇之。
それが写真の男の名だった。結婚詐欺師、であるらしい。随分と金を持っているようである、どこか嫌悪を感じさせる、厭らしい顔をした男だ。金と煙草、そして酒をこよなく愛する叔父は、女への同情心などではなく男の持つ金に魅かれたに違いなかった。
蛟堂は、表向きは漢方薬局兼雑貨屋である。先にも述べた、上海に住む伯父から仕入れた薬やら、何に効能があるのかよく判らない多数の札やら香やら、いかがわしげなものばかり取り揃えている。
客は当然固定客ばかりで、多いとは言えない。それでも店を開いた江戸の中期頃は商売として成り立っていたようであるが。
それならば何故、蛟堂が辰史の代まで続いているのかと言えば、蛟堂が請け負うもう一つの仕事が主な収入源となっている為である。
報復屋――
だんだんと客の少なくなってくる表の商売とは裏腹に、近世になればなるほど、需要は高まっている。宣伝をしているわけではなかったが、その存在は遣り場のない恨みや憎しみといった負の感情を抱えた人間の間では実在するものとして噂された。
「怖いねえ、女の恨みってやつは」
辰史は鋭い眸を細めて、煙草の煙を吐き出しながら唇の端を歪めて嗤う。
「これだけ証拠と資料を集めておいて――訴えりゃ一発だろうに、司法の裁きじゃ足りないんだと」
紅縞瑪瑙の灰皿は、既に煙草の吸殻と灰とで一杯で、本来であれば見る人の目を奪う筈の幾層からもなる紅と白の模様はすっかり隠されてしまっている。消臭のつもりであるのか、焚き占められた白檀の香と煙草の匂いが奇妙に混ざって、混沌とした匂いを作っていた。
(後でファブリーズでも買ってこよう)
太郎は、最後の一枚を畳み終えると立ち上がった。洗濯物にこの匂いが移ってしまわぬうちに仕舞ってこようと思ったのだ。そんな甥に、辰史は細めたままの視線を向ける。
「太郎ちゃん、良い子だからお使いに行ってきてくれねえかな」
小さい子供に頼むような、その言い方は何やら馬鹿にされているようであったが、抗議をしようにも大抵の人間は辰史の目を見ると蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。それは太郎も例外ではなく、何も言えずに押し黙ったまま続く辰史の言葉を待てば、辰史は胸ポケットの中から万札を数枚取り出して太郎の足元に放った。
「お隣さんで本を買ってきてくれ」
お隣さん、と言えば「幻影書房」である。古書店、と銘打ってはいるが、こちらも蛟堂に負けず劣らず一般の古書店とはかけ離れた性質を持つ店であることを太郎は知っている。
「本、ですか?」
「そ。道成寺って言や、太郎なら判るだろ」
「道成寺…安珍と清姫ですね」
その本の内容を思い出して、太郎は今度こそ露骨に顔を顰めた。
「辰史叔父さん、相変わらず性格が悪いですね」
「そりゃどうも。俺にとっちゃあ褒め言葉だよ。ついでに煙草を20カートン、」
「駄目ですよ。母さんからあまり吸うなと止められているでしょう」
ぴしゃりと言って、太郎は足元の札を拾い上げると障子を開けた。手前にある桐箪笥に畳んだ洗濯物を仕舞いこむと、苦い顔をしている叔父の前を通り過ぎて玄関へと下りる。
「まったく、いらんとこばっか姉貴に似やがって」
後ろで聞こえた、ぼやくような声に太郎は小さく笑った。
***
「道成寺ぃ?」
「また、何で」と、赤い革張りのアームチェアに座った青年は眉を顰めた。
黒の短髪には少しだけくせがあるらしく、裾が僅かに跳ねてしまうのを気にしているのか――それとも無意識の癖であるのか、太郎の話を聞きながらくるくると女子のように髪の裾を弄っている。
青年は名島瑠璃也。古書店、幻影書房でバイトをする太郎の友人だった。
(相変わらず何度来ても古書店らしくない内装だ…)
赤い絨毯の敷き詰められた床、落ち着く光を放つペンダントランプ、ブックシェルフ。そのどれもにディティールに凝った繊細な彫刻がなされている。アンティークショップでも、ここまで完璧な室内にはならないだろう。まるで中世の英国を思わせるその店内で、ぽつりと瑠璃也だけが浮いている。
アームチェアに座っていたのが、本来のこの店の所有者――店主である鬼堂六であったのならば、気後れして話を切り出せなかっただろう。画龍に目を入れるようなもので、鬼堂のいるこの店の風景は完璧すぎて、慣れぬ者には威圧感を与えた。
あの辰史ですら、鬼堂のことは少々苦手としている風がある。
(だから僕を使いに出したんだろうけどね)
肩を竦めて、太郎は瑠璃也に「仕事で使うらしいんだよ」と困ったように返す。
「仕事ねぇ。三輪さんも相変わらず仕事熱心な人だな」
「仕事熱心というよりも、何よりお金が大好きな人だから。何に使ってるのか判らないけどさ」
「貯め込んでんじゃね?老後の為に」
「そんなタイプに見える?」
「……見えない」
溜息を吐き出す太郎に同情するように苦笑すると、瑠璃也はアームチェアから立ち上がった。
「ちょっと待ってろよ」
幾つかのブックシェルフの前を通り過ぎて、硝子戸の付いている棚の前で足を止める。首元にじゃらりと提げた――この店のどこに、そんなに鍵を使う場所があるのか太郎には判らなかったが――鍵の束の中から金色の小さなものを一つ取り出して、硝子戸の鍵穴へと差し込む。
かちり
右へ回すと、小さな音がして戸が開いた。
瞬間、瑠璃也は少しだけ後ろへ仰け反って額を抑える。
「瑠璃也?」
「あ?ああ、ちょっと、ここにある本は強烈なのばっかでね」
口元を引き攣らせて、答えながら瑠璃也は中から赤い装丁の本を一冊取り出した。
「強烈って……」
太郎はその意味を知っている。
古書店――幻影書房。凡そ古書店らしくない、この店に置かれている本の大部分は“普通の”本ではない。店主の鬼堂曰く、「誰かを待っている」本ばかりであった。誰しも、記憶を辿れば思い入れの一冊や、人生を変えた本の一冊が存在するだろう。そういった本には思念が宿る。強すぎる人の想いは、物語の中の登場人物に意思を与える。
そうして、何らかの思念を持った本と、何かを求める人間とが出会う場所が此処、幻影書房であると言う。
名島瑠璃也は求める求めないに関わらず、そういった本の思念を引き寄せてしまう少しばかり特殊な性質を持った青年であった。
強烈、というのは思念が強すぎるという意味だろう。人の想いというのは、必ずしも美しいとは限らない。むしろ強く色濃く残るのは負の感情である場合が多い。そうして、世の中に存在する物語の全てが、幸福な物語だというわけでもないのだ。
例えば、今まさに太郎が瑠璃也から受け取ろうとしている道成寺。
奥州から熊野権現へ参詣する一人の美しい僧侶に、西牟婁郡真砂の庄司清次の娘である清姫が恋をした。僧侶であった安珍に焦がれた清姫は夜中、安珍の寝所へと忍び契りを迫る。
安珍は僧侶である。それも、熊野権現へ参詣する途中であったから、清姫の願いを聞き入れることなどできるはずもない。一計を案じた安珍は、嘆き恨む清姫へとこう言ったのだ。
――参拝奉幣の素願を遂行して、下向の際は必ず貴嬢の芳意に随従せん。
無論、その約束が果たされるはずもない。帰らぬ男に焦れた清姫が、熊野から帰ってきた旅人に安珍のことを尋ねれば、安珍らしき男はもう数日も前に立ったという。
清姫の怒りは推して知るべしである。
勿論、そんな安珍と清姫が最終的に和解し幸せに暮らす、などという結末を迎えるはずがない。後に続くのは悲しく、凄惨な物語であった。
「そんな本、鬼堂さんがいない時に売っちゃって大丈夫なのか?」
「あ、いや。普通の客には駄目なんだけど、常連さんならいいって言われてる。特に蛟堂さんはね。お得意さんだし、うちの勝手も知ってるしね」
「はい」と手渡されて、太郎は一瞬だけ躊躇った。血のように赤い装丁は、道成寺のストーリーも相俟って、本を不気味で恐ろしいものに感じさせる。
瑠璃也はそんな太郎に「大丈夫だよ」と笑った。本をくるりと裏返してみせる。裏表紙には太郎にも見覚えのある札が一枚、貼られていた。
「これ、うちの札じゃないか」
「そ。これで思念を繋ぎ止めてるから剥さない限りは平気…だと思うって鬼堂さんが言ってた」
成程、さすが江戸の中頃からの付き合いというだけはある。蛟堂と幻影書房は昔から互いにそうやって助け合いながら店を続けてきたのだろう。
「えっと、いくらだ?これ」
裏表紙を捲った瑠璃也の手が止まる。
「いくら?」
「……五万」
「五万?それは、高いな」
本の値段としても高いことには高いのだが、それ以上に――
「辰史叔父さんがそんなに高い本を使おうとするなんて信じられない」
「あの人が相場を知らないわけないもんなぁ」
「うん。知ってたと思うよ」
太郎はごそごそとポケットを探る。渡された万札は五枚――五万丁度。
(あ、煙草は最初から諦めてたわけか)
「なんて言うか、標的にされた人が可哀想になってきたよ、俺」
「しっかり元取るあてはあるって考えてるってことだろ?」と苦笑する瑠璃也に、太郎は紙幣を渡しながら頷く。
「だろうね」
元を取るどころか、この投資なんて話にならないくらい儲ける気があるのだろう。辰史は標的に対して容赦や加減というものをしない。いや、金での解決は辰史なりの容赦、なのか。
(地獄の沙汰も金次第、ね)
叔父の好きな言葉を思い出しながら、太郎ははぁ、と何度目になるか判らぬ溜息を零す。
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