「ほらなー、だから言っただろ。太郎ちゃんが俺の話信じないから」
丁度バイトの終わる時間だったらしい。
帰り支度をしていた瑠璃也は店に飛び込んできた親友から、先の不思議な箱が曰く付きの代物であったことを聞くと「やっぱりやばかったんじゃんか」そう、誇らしげに胸を反らせたのであった。
「おや、秋寅君。こんにちは」
「あー、六さんお久しぶり」
どうかしたんですか、と問う鬼堂へ、秋寅が〈耳中人〉の収められていた小箱を手渡す。流石に長年幻影書房の店主をやっているだけあって、鬼堂は本の中で眠る思念のみならず不思議な道具にも詳しいらしい。箱の蓋裏に描かれていた天体図を眺めると「耳中人ですか」そう、呟いた。
「これ、秋寅君が持ってきたんですか?」
「いんや。辰ちゃんがさ、通販で頼んだんだって」
「成程」
ビスクドールよりも猶美しく、温度の感じられない顔へ鬼堂は納得ですとでもいうような苦笑を湛えてぱちん、と小箱の蓋を閉じる。
「尊さんもよくよく骨董品の好きなお方でしたけれど、辰史君の趣味もなかなかに……」
「悪趣味。でしょ?もうこれとか骨董品じゃなくてただのオカルトグッズだからね。何に使うのか知らないけど、我が弟ながら根暗すぎるっていうか」
「そういう秋寅君は幾つになっても躁気味ですね」
「やだなー、六さん。そんなに褒めないでよ。俺、照れちゃう」
てへへ、と舌を出して――といえば可愛らしく聞こえるかもしれないが、三十路過ぎの男がそれをしている姿は実際のところ何と言うか、壮絶である。
けれど鬼堂という男は、秋寅の妹弟らほど力にものを言わせるタイプではなかったし、また丑雄ほどに気遣いの出来るタイプでもないので、敢えて秋寅の可愛さアピールに関して触れることはせずにやはり整然とした微笑みを湛えるのみであった。
「それで、秋寅君」
「ん?」
「見たところ、空のようなんですが……中身は?」
普段からにこにこと笑んでいる眸がすっと開いて、闇色の瞳が興味を含んで秋寅を見つめる。秋寅はそこで初めて困ったように瑠璃也を振り返り、
「いやね、太郎ちゃんの話だとお宅の瑠璃也君と稲荷運送の子と三人で開けたんだっていうから。てっきり見えちゃう瑠璃也君に憑いちゃったかと思って慌てて来たわけなんだけど」
「俺ですか?」
急に視線を向けられた瑠璃也は、驚いたように眸を大きくしてやがてその顔へと困惑を浮かべた。
「でも俺、どこも何ともないですけど」
「そうなんだよねぇ」
ちら、と秋寅が床に視線を落とした。瑠璃也と太郎もつられるようにしてそこへと視線を向ければ、秋寅の足元にはいつの間にか一匹の虎猫が侍っている。
金色の目をした小さな虎猫は、喉の奥を振るわせて鳴くと主人の足を前足でひっかいた。
「うん。シロちゃん、ご苦労様」
優しく労いの言葉をかけた秋寅が、ぱちんと指を鳴らせば虎猫は一枚の式符へと戻る。
「……この店には、いないんだよ。耳中人」
そうして指先で依り代であった紙切れを摘み上げると、秋寅は瑠璃也と太郎へ再び視線を向けてあっさりとそう言ったのである。
太郎と瑠璃也は顔を見合わせた。
どちらの瞳にもありありと疑問が浮かんでいる。
――では、耳中人はどこへ?
「箱を開けたのは、太郎君と瑠璃也君だけではないでしょう?」
そう、物分かりの悪い子供を諭すような静かな口調で言ったのは鬼堂である。
「はい。僕と瑠璃也と――」
「あきら君!?」
瑠璃也があっと叫んだ。
太郎も「まさか」という顔をしている。
血筋柄思念が視えてしまう太郎や、思念から好かれる奇妙な体質を持った瑠璃也とは違い、稲荷運送で働きながらもあきらは〈何も視ることができない〉。
仮に幽霊という存在が居たとしよう。
実態のない彼らの存在を視ることのできるのは少なからず霊感を持った人間である。こちらから視えているということは、あちらからも視えているということであり、同じように関わり合いになることができるのもその存在を感じ取ることのできる人間のみであろう。
何故なら人は視ることの、感じることのできる存在以外を受け入れるようにはできていないからだ。視て、感じて、受け入れることでようやくそこにそれが居るのだと認めることができる。
例えば目の前に花瓶が落ちてきたのだとして、それを即座に視えない存在の仕業であると決めつける人間など居るまい。置かれていた場所が悪かったのだとか、風に吹かれたのだとか――誰かが悪戯したのだとか、まずはそう思うはずである。
自らを受け入れぬ相手に呼びかける虚しさを、〈彼ら〉は知っている。
存在するか判らぬ霊も、思念も、元は生き物である。強すぎる思いを抱くが故に、目に見えぬその部分のみ風化することなく残されてしまった、れっきとした〈生き物〉だ。
だから不思議なもの――怪異と呼ばれるそれらは決して人の関わらぬ場所に起こることはない。
つまりは、視ることのできる太郎や、不思議と思念を吸い寄せる性質を持つ瑠璃也と違い、ごくごく普通の一般人寄りなあきらが怪異に巻き込まれる確率は、本来であれば二人よりずっと低いのだ。稲荷運送という特殊な職場で働いているにしても、あきらには〈気付かぬ〉という一番の強みがある。
気付かぬことには何も始まらない。
人が非日常へ足を踏み入れる一番の原因は〈気付いてしまう〉為であろう。
大分話はそれたが、そういうわけで太郎も瑠璃也もまさか十間あきらが〈耳中人〉に憑かれたとは思いもしなかったのであった。
「まあ、普通は君たちの思う通りなんですけどね」
鬼堂は肩を竦める。
「二人みたいに視えてしまったり、同調してしまわない限りは思念に影響を受けることはないんですよ。普通の思念には、ね」
言葉尻を秋寅が引き継ぐ。
「そうそう。厄介なことにさ、うちの愚弟が今回通販で買ったのは純粋な思念なんかじゃなくてね。もっと安っぽい、量産型の人工精霊なわけよ」
「人工精霊……」
「精霊っていうとやたらファンタジーちっくだけどさ。まあ、要するに人格を統一して作られた思念のことだね」
「そんなの、作れるんですか」
胡散臭そうに眉間へと皺を寄せる太郎に、秋寅は苦笑を浮かべながら顎を引いた。
「世の中にはね、いろんな研究をしている人間がいるんだよ。脳の研究、心の研究を進めていく過程で人工知能の組み込まれたロボットが使われることもある。その結果、得ることのできたデータから本来の研究に必要な資金を調達する為に副産物として〈耳中人〉みたいな玩具が作られることも、まあよくあることといえばよくあること、なのかな」
「それらの思念は人工的なものですからね。勿論人を選ばない。秋寅君は玩具と言いましたが、実のところ非常に危険な――大人の玩具なんですよ。〈耳中人〉は」
「やだなー、六さん。大人の玩具だなんてヤーラシー」
茶化すように言った秋寅の、遮光眼鏡の奥で瞳がにんまりと笑んだ。
「そういうわけで、二人とも。ぽかんとしてる場合じゃないんじゃない?稲荷運送の子、死にはしないと思うけど早く行かなきゃ痛い目みちゃうかも」
***
へぶしっ
急に背筋へ悪寒が走ったと思ったら、奇妙なくしゃみが立て続けに二度。辰史は口元を手で押さえながら、ずずっと鼻をすすった。
隣に座って雑誌を眺めながら、
「あ、この映画。私観たいんですよ。今度行きません?」
などと話していた比奈の眸が辰史を心配そうに見上げる。
「風邪ですか?」
「いや」
即座に否定。心配性な恋人へ、傲慢な顔には似合わぬ砂糖菓子よりも甘い笑みを浮かべて辰史はその薄い唇を開いた。
「誰かが俺のことを愚弟だとぬかしやがった」
「はあ……」
――陰口を叩かれている、なら判らぬ事もないが、具体的すぎやしないか。
「多分秋寅だ。あの馬鹿兄貴。俺が近くにいないと思って罵倒しやがって、今度会ったら三倍返しにしてやる」
微笑したまま口汚く罵る。部屋の温度がすうっと下がっていくような気がするのは、その微笑の所為だろう。
けれど比奈は
「怖いです。辰史さん」
という正直な感想を口には出さずに飲み下す。いちいち指摘をしていたのなら、三輪辰史という男と付き合ってゆくのは困難であるし、辰史はこれでいて意外に繊細なところのあることを比奈は知っている。
――と、言うと神山などからは「そんな面倒な男、生ゴミの日に袋に詰めて出しちゃいなよ」と悪態を吐かれるのだが、やはり辰史には内緒である。人間、知らない方が良いこともある。
それらの現実的な意見全てに蓋をして、比奈は「そうですか」と肯定した。
「風邪じゃないなら、いいんです」
「俺は風邪でも良いけどな。そうしたら、比奈が看病をしてくれるんだろう?」
「またそんなこと言って」
「してくれるだろ?看病」
風邪ではない、と言ったばかりだというのに。
ずい、と顔を近付ける。強請るような口調。まるでそうすることが義務である、とでも言いたげな不遜な瞳。男にしては綺麗すぎる指先が頬を撫でてもう一度、
「比奈ちゃん。ほら、答えは」
そう、促した。
「何だったら、今から看病してくれてもいいんだぜ」
「な、風邪なんて引いてないじゃないですか」
「病気だよ病気。恋の病」
そっと手を取り指先へ軽く口付ける。楽園でエヴァを誘惑する蛇の如くに優しく狡猾な顔が比奈を覗き込んだ。
喉が震える。密やかな笑い声が、耳元で響いた――その瞬間には、見た目のわりに逞しい両の腕が絡みつくように背を掻き抱いている。
――このように囁きかけられたのであれば、誰しも禁忌の一つや二つ、容易く犯してしまうだろう。
ぼんやりとそんなことを思いながら、比奈はのしかかる男の背へとゆっくり腕を回す。見つめていた蛇の瞳が満足そうに微笑んで、床へと映る影がゆっくりと重なった時、そこへと潜む〈狐〉だけが「またか」と呆れたように小さく鼻を鳴らしたのであった。
***
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後半全く関係ないですな。
例の如く二人はnotシリアス担当です。