比奈はそんな辰史にも慣れたものだと言う風に、眉一つ動かすことなく辰史に促されるままに伝票とボールペンを受け取りサインをする。ペンを握る右手の薬指にはめられた、銀色の輝きからあきらは眸を逸らした。
 逸らした眸は比奈の上から伝票を覗き込んでいる男の漆黒の瞳とかち合う。辰史は蛇のようなその、お世辞にも人が好さそうであるとは言えない瞳へとおよそ似付かわしくない優しげな色を浮かべていたが、あきらの視線に気付くと一度瞬きをしてそこへと普段と変わらぬ傲岸さを灯した。

「何だよ」
「別に」

 怪訝な顔をする辰史にあきらは素っ気なく返す。当然のように比奈の腰元へ添えられた左手が気に入らないのだとか、恋人面をして部屋に居座っていることが気に入らないのだとか、比奈へ移る男の残り香が気に入らないのだとか、幾つも言いたいことはあったが、それらのうちのどれか一つでも口にしてしまったのなら、負けのような気がしたからだ。

「はい、お待たせ」

 比奈の声に、あきらは我に返る。差し出された伝票を受け取り、「ども」と低く返した声を聞くが早いか辰史の手は既に比奈の背を部屋の奥へと押しやっている。あきらは恨めしげに辰史を睨み上げたが、その大人げのない男へといつものように噛み付いてやる気にもなれずにふい、と背を向けるに留める。

「じゃあな、おっさん。比奈さんに変な真似したら太郎サンにちくんぞ」

 ――ちぇ。
 来るんじゃなかった、と小さく舌打ち。
 傲慢なくせに比奈に対しては優しげな瞳を向ける辰史も、そんな辰史を自然のものとして受け止める比奈のことも、嫌いだ。
 まるで――入り込む余地など無いと、言外に言われているようで。そんな風に思ってしまう自分が、まだ子供であるとでも言われているようで。
 浮かれていた少し前の自分を殴りつけてやりたい気分だ。口の中で呟いて、壁を蹴り上げればジンと爪先が痺れる。なんだか酷く情けない気分になって溜息を吐き出した瞬間に、再び右の耳朶がちくりと痛んだ。



 ***



「あっれぇ?太郎ちゃん。これ、中身は?」

 箱を開けた瞬間、秋寅は頓狂な声を上げた。
 遮光眼鏡を外してじっと赤いピアスを覗き込む叔父の言う意味が判らずに太郎は首を傾げる。
 ――昔から辰史に負けず劣らず変な叔父ではあったが、ついに行くところまで行き着いてしまったのか。
 そんな失礼な感想を、思わず口に出してしまいそうになって甥っ子は自らの口を手で押さえつけた。やや躁気味ではあるが、意外と――辰史などよりはよっぽど繊細な秋寅である。

「何がです?」

 あるじゃないですか、中身。
 赤いピアスを指さして言う。秋寅は、そんな太郎に「ああ、そうじゃなくてね」そう、困ったように頭をがりがりと掻いた。

「そっかぁ。太郎は眼鏡かけてたんだもんなぁ」
「はい?」
「ピアスの、中身」

 呟く叔父に、太郎は瑠璃也の言葉を思い出す。
 ――あきら君や太郎には見えなかったかもしれないけどな、ほんと一瞬真っ赤な顔の何かがわっと出てきたんだって!すげえ形相で!

「赤い顔の?」

 まさかと思いつつも問えば、秋寅はあっさり頷いた。

「そう。それ。耳中人」

 大事を他人事と思える人間だけが浮かべる、へらりとした笑みを浮かべたままで秋寅は語り始める。細く伸びた指先が赤いピアスを摘み上げて太郎の鼻先へスッとそれを近づけた。

「むかぁし、むかし。山東省に不老長寿になるための修行を続ける導士がおりました」
「はあ」
「そんなある日、結跏趺坐をする導士の耳元で〈会おうか〉と訊ねる微かな声がしたのです。さては己の修行も終わりに近いか、と喜んだ導士はそれから数日。何度目かになる〈会おうか〉という件の声に小さな声で〈会おうか〉と返したわけですが――」

 小さな子供に絵本でも読んでやっているかのような口調、声音で秋寅は続ける。いつでも穏やかな瞳は、穏やかなまま――ほんの少しの痛ましさも表すことなく物語の結末を告げた。

「返事をした瞬間に、耳の中から何かが這い出してきた感覚に目を開ければ、そこには三寸ばかりの小人がおりました。小人っていうと可愛すぎるかな。まあ、ともかく獰猛な顔をした小鬼は導士が驚いているのにも気付かぬ様子で地面を歩き回っている。ちょうどその時、隣の家人がね、物を貸してくれと戸を叩いたわけだけど、その物音に小人は酷く驚いて導士の耳の中へ帰ることも忘れてしまったみたいに部屋の中を走り回った。それを観ているうちに導士はふっと気が遠くなって、半年ばかり気が違ったようになってしまいましたとさ。おしまい」
「その話と、この箱とどういう関係があるんです」

 秋寅の話はいつも突拍子がなくてオチもない。
 首を傾げる太郎に、秋寅は「もう少し怖がってくれないかなぁ」と少しだけがっかりしたように肩を落とした。
 ふて腐れたように、後ろで一つに括った茶髪を弄りながら「昔はあんなに素直で可愛い子だったのに、今じゃすぐに結論を求めるようになっちゃって。辰史に悪影響受けてるよ。絶対」とこれみよがしに呟く叔父は無視するに限る。
 辰史の影響云々と言うよりも、素直な幼子に散々大人げなく怖い話を聞かせて面白がった叔父叔母らのその性格の悪さが今の自分を作っているのだと、太郎は思っている。

「はいはい。怖かったです。すごく怖かったですから、先を続けてください。秋寅叔父さん」
「何かすごく適当にあしらわれてる気がするんだけど……」

 まあいいや、と――元々それほど気にもしていなかったのだろう。――秋寅はけろっとした顔で笑った。
 三輪秋寅とはそういう男だ。虎とは名ばかりで猫のように移り気で気紛れなのだと、一族の老人らが陰口を叩いていたのを思い出して溜息を吐き出す太郎のことを気にした風もない。摘んだ赤いピアスをくるくると回して、どうやらそこへ映る自分の顔を覗き込んでいるらしかった。
 口元を微笑ませたまま、

「だからさ。これはそんな不思議な話を元にした呪いのアイテムでね」
「呪いのアイテム?」
「箱を開けた人間の耳へと取り憑いて悪さをする、人工精霊が閉じ込められているわけなんだけど。本来はね」

 ただのピアスとなってしまった、それを覗き込むのにも飽きたのだろう。秋寅はあっさりとピアスを箱の中へ戻すと実に楽しげな瞳を太郎へ向けた。

「見たとこ、太郎ちゃんには憑いてないね。開けたのは?」
「瑠璃也と、あきら君……ですけど、」
「ふうん。行ってみる?お隣さん」

 人差し指が脳天気に幻影書房の方角を指す。
 太郎はそんな叔父の呑気な問いに頷くが早いか、ひょいと土間へ降りて爪先に靴を引っかけたまま外へと飛び出した。
 まるで突風のように素早く親友の元へ向かった甥の背中をぽかんと見つめていた秋寅は、鍋がことことと沸騰する音で我に返る。あのしっかり者の甥が、火を消し忘れるほどに慌てるとは――

「羨ましいことだねえ、初子姉さん」

 今は日本にいない姉にそう呟きコンロの火を消すと、秋寅もゆっくりとした足取りで太郎の後を追った。




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