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「あ、これ比奈さん宛てだ」

 陽が落ちかけた空は、橙色と薄闇が入り交じってまるでカクテルのようである。あきらはバイクを走らせながら、ショルダーの中に一枚伝票が残っていることに気付いて「あっぶねえ」と呟いた。底へと張り付いていた伝票を裏返せば、〈天月比奈様〉と見慣れた名。どうやら手違いで紛れ込ませてきてしまったらしい。
 「近いし、届けていこうか」――と、言っても此処からならば、比奈のマンションへ行くより営業所へ戻る方が近い。中身は本、と書かれているから明日比奈が出社した際に渡せば済むことである。

「いや、だって比奈さんも早く手元に届いた方が良いかもしれねえし」

 一人言い訳を呟きながら、あきらはうんうんと頷いてバイクを止める。ジャケットのポケットへと突っ込んでいた携帯の履歴から営業所の番号を呼び出し掛ければ数コールの後に少し高めな女の声が「はい、こちら稲荷運送」と愛想たっぷりに答えた。

「あ、常盤サン。俺です。あきらですけど」
「ああ、あきら君か。どこで道草食ってるわけ?遅いじゃない」
「すみません。ちょっと幻影書房で瑠璃也サンに捕まっちゃって」
「というか、無駄話してたんでしょ。どうせ」

 「悪い子ね。あんまり遅いと閉め出すわよ」――今にも吐息が聞こえてきそうな囁きに、あきらは思わず携帯を耳元から離す。常磐はそんなあきらのリアクションを予想していたかのように「あきら君てば相変わらず初心なんだから」と鼻で笑った。

「所長に言いつけられたくなかったら、一秒でも早く帰ってきなさい」
「あの、そのことなんですが」
「ん?」
「荷の中に、比奈さん宛てのものが混じっていて・・・俺的には届けた方がいいんじゃないかと思うわけですけど」

 「駄目ですかね?」問えば、受話器からは数秒の沈黙の後に「ぷ、くく」と堪えるような笑い声が聞こえた。どうやら笑われているらしいことに気付き、あきらは虚勢を張るように「な、なんですか」と声を強張らせる。

「か、かわいい・・・・・・」
「常磐サン?」
「素直に比奈ちゃんちマンション行きたいって言っちゃいなさいよ少年!」
「ばっ、」
「オーケー、オーケー!特別に許可してあげるわ!行って所長に〈お遣いありがとう、十間君〉って頭撫で撫でしてもらってきなさい」
「初めてのおつかいじゃねーっすよ!」

 勢いでぶちりと通話を切って、あきらは苦虫を噛み潰したような顔をした。恐らく帰る頃には常磐が皆に「ねえねえ聞いてよ、あきら君てばさぁ」と面白可笑しく吹聴してまわっているに違いない。
 小さく舌打ちして再びバイクのエンジンを噴かす。いつまで経っても比奈に子供扱いをされるのは、常磐を初めとした稲荷運送の社員皆が自分のことをマスコット扱いしてからかうのが原因だ。多分。
 ――でなきゃ、俺だって。
 それがあまりに言い訳じみているように思えて、あきらは続く言葉を飲み込んだ。

 しばらくバイクを走らせれば、比奈のマンションが見えてくる。
 大きいわけではない。どちらかといえば小さい方かもしれない。ごくごく一般的なマンション。設置されたテンキーの番号は知らないのでインターホンを押す。一秒、二秒、三秒――少し待てば「どちら様ですか?」と比奈の声が聞こえた。

「あ、比奈さん。俺です。あきらです」
「十間君?どうしたの?」
「へへっ、比奈さん宛ての荷物をお届けに」

 「わざわざ持ってきてくれたの?ありがとね、今開けるから」そんな声がして、入り口が開く。エレベーターに乗って、五階。最上階の角が、比奈の部屋だ。
 白いドアの前に立って、あきらは一つ息を吸い込むとインターホンを鳴らした。がちゃ、と音がして通話が繋がる――よりも早く、純白のドアが無遠慮に外側へと開いた。

「おー、お疲れ」
「な、」

 労いの言葉をかけたのは、比奈ではない。いつものだらしなく着こなしたスーツ姿ではなく、ゆったりとした黒のシャツに身を包んだ、男。いつもは後ろへ撫でつけた髪を下ろしてすっかりくつろぎきっている男は、三輪辰史である。
(そういえば、このおっさんの存在をすっかり忘れていた!)
 奥から比奈の「十間君、ご苦労様」という声が聞こえた。辰史の体の向こう側を覗き込めば、ぱたぱたと比奈が駆けてくる姿が見える。夕食でも作っていたのか、白いショートエプロンを身につけた比奈を振り返り辰史は当たり前のように「ほら、早くサインでもなんでもしちまえよ。メシが冷めるだろ」とその手を掴み、引き寄せた。




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