ぽつり、ぽつりと外から雨音が聞こえる。名島瑠璃也は幻影書房の中――デスクの奥、赤い革張りのアームチェアに座って店番をしていた。
 隙間から吹き込んでくる外の空気が、涼しい。先程夕飯を済ませたばかりで、腹もくちくなっている。こんな雨の日には普段来ない客が、余計に来ない。
(暇だ)
 半ば癖になってしまった、その一言を口の中で呟きながら瑠璃也はデスクに突っ伏した。
 あまりに暇さに辟易して、先までは電卓で相性占い――自分の名前と相手の名前を数字に変換して、足して割ったりして最終的にパーセンテージで結果を表すものだ――をしていたくらいだ。誰との相性を占っていたかは、瑠璃也のみが知ることである。
 電卓には何とも中途半端な「72.23756.....」という数字がクリアボタンを押されずに、表示された侭になっていた。

「眠い……」

 ――しかし、寝たら駄目だ。
 「うちの大事な子たちを放ったらかしにして居眠りとは良い度胸ですね瑠璃也君」と、にこりと笑う鬼堂六の顔が目に浮かぶ。
 仕方なしに、瑠璃也は手近にあったメモ帳を一枚破って手に鉛筆を握った。

「さぁて、一人似顔絵大会〜」

 「ちゃっちゃらら〜」と一人で効果音をつける。虚しい。酷く、虚しかったが、それには気付かないふりをする。気づいてしまったら負けだ。とにかくこの眠気を振り払うことが瑠璃也にとっては先決だった。

「お題一、太郎ちゃん」

 かさかさと紙に鉛筆を走らせてゆく。「どんな顔してたっけな」と友達甲斐のないことを口にしながら、眼鏡を描いて瑠璃也は満足げに頷いた。

「お、似てる似てる」

 その隣に蛇のように先の割れた舌を出した、蛇のような辰史を描いて、やたらときらきらとした鬼堂を描いたところでこの一人遊びにも飽きてくる。当然だ。描くのも見るのも自分一人なのだから盛り上がるはずがないのだ。

「つまんねえの」

 瑠璃也はぐしゃぐしゃっと紙を丸めてデスクの脇にあった屑籠に放り投げた。

「あー、馬鹿らしい。何やってんだ、俺」

 再び、突っ伏す。
 心地よい寒さに、瞼がとろり、と落ちかけた。鼓膜に響くのは雨音のみだ。静かで、誰も来ない。このまま少し、ほんの少しくらい意識を落としてしまっても問題ないのではないかという気に、させられる。
(誰も来ないんだもんなー)
 鬼堂も、仕入れに出る際に余程急いでいたと見える。瑠璃也の仕事を用意し忘れていってしまったのだから、本格的にやることもなく、それが余計に瑠璃也の瞼を重くした。

 ぺたり、ぺたり

 ――誰だ?
 眠りの淵でうとうととする、自分に向って誰かが近づいてくる。それは聞き覚えのある奇妙な足音だった。けれど、瑠璃也はどこでその足音を聞いたのか思い出すことができない。――今は、まだ目を瞑っていたい気分だった。
 蝶番の音は響かない。店に用があるのか、ないのか――この辺りは通行人も滅多にいなかったが、ここに用があるわけではないのだろう、と瑠璃也はぼんやりとする意識の中で思った。しかし、

 ぱさり

 不意に、肩に上着をかけられたのを感じて、瑠璃也は慌てて体を起こした。鬼堂六が帰って来たのだと、思ったのである。気配を感じさせずに店に出這入りできる人間など、瑠璃也は鬼堂以外知らない。

「わわ、すいません!でも寝てませんよ!?ホント、ちょっと突っ伏してただけですって!」

 が、

「あれ?」



 ――誰も、いない。けれど肩には上着が掛かっている。それも、家に置いてきたはずの、自分の上着が。
 狐につままれたような気分になって首を傾げながら店内を見渡した瑠璃也は「あ!」と声を上げた。
 濃赤色の絨毯の上に、いくつか水溜りができている。

「な、何だよ!?これ…!」

 まるでずぶ濡れの誰かが入って来たかのような、
(でも、扉の開く音なんてしてないぞ)
 覚えのない、この上着と何か関係があるのだろうか。考えながらも、ともかく絨毯の上にできた水溜りを奇麗に拭き取ってしまわねば、とアームチェアから腰を上げた瑠璃也はデスクの脇に一冊の本が落ちていることに気が付いた。
 蒼い、本。
 ――上着と同じく、ここにあるはずのない、本。

「人魚姫!?」

 ぎょっとして、手に取る。

「もしかして、これ、持ってきてくれたのかなぁ」

 海のように深い青色の、上着。どうやって持ってきたのかは知らないが。
(雨、と関係があるのかな?)
 短絡的に、水と結びつけてそんなことを考えながら瑠璃也はもう一度本に視線を落とす。

「ありがとな」

 なんとなく照れながら呟けば、表紙の彼女はほんの少しだけ眸を伏せて、頬を染めたような気がした。




-了-