三輪辰史に手を上げることのできる人間は限りなく少ない。一人は彼の父親であり――この場合、すぐに辰史は父親を殴り返したが――もう一人は名島秋子、つまりは名島瑠璃也の母親であった。
名島秋子は鬼堂六の先輩にあたる。鬼堂や辰史とは長い付き合いになる。辰史はこの大先輩を、非常に苦手としていた。普段の調子で物を言えば「生意気だ」と頬を抓られる。文句の一つでも言えば倍にして返される。
人をやり込めることはあれど、やり込められることに慣れていない三輪家の御曹司にとって、秋子のような人間は非常にやりにくい相手であった。
だから、その日も気が進まなかったが、秋子から電話で「駅前に新しくできたケーキ屋でモンブランを買ってきてくれない。六君も一緒だから三つね。辰ちゃんにも紅茶をご馳走してあげるから三十分以内に来なさい」と呼び出しをかけられたら行かないわけにはいかなかった。
無視をすれば次に会った時に酷く詰られるであろうことは想像に難くない。また、鬼堂は秋子に後輩として可愛がられていた為か、いつでも秋子の肩を持った。
時間にはルーズな辰史が、急ぎに急いで三十分以内に名島家を訪れれば、既に鬼堂と秋子は紅茶を飲んで語らっている。
(俺を呼ぶ必要があったのかよ、このババァ)
いつでもこういった扱いをされていれば、彼女の息子である瑠璃也を苛めてやりたくもなるというものである。乱暴に、テーブルの上にケーキの入った箱を置けば、そこで初めて秋子は辰史へと視線を向けた。にやにやと、笑っている、その、目元に辰史はたじろぐ。
「な、何だよ。気持ちわりいな」
「辰ちゃんってば、やあねぇ」
「だから、何だってんだよ」
鬼堂を見る。が、鬼堂もにこにこと普段と変わらぬ笑みを浮かべるのみである。
訳が判らない――というのは今に始まったことではないが。それでも笑われるのは良い気がしない。普通の人間ならば固まってしまうであろう、眸を細めて威嚇するように睨み付けても、秋子はそれすら慣れたものだという風に笑っていた。
「ねえ、辰ちゃん。この前駅で比奈ちゃんとちゅーしてたって本当?」
がたんっ
思わず手に持っていた黒の皮鞄を落とす。
「な、瑠璃也が言いやがったのか!?」
辰史らしくもないことに、誤魔化すことも忘れて叫べば秋子は眉をひそめた。
「やあね。瑠璃也にも見られたの?教育に悪いからやめてくれない?そういうの」
「うっせ、何であんたが知ってんだよ!」
「何でって、ねえ?六君」
「仕入れの帰りに、僕も偶々現場を目撃しましてね」
まるで執事のような出で立ち、絹の手袋をはめたままのその手でティーカップの取っ手を摘んで優雅に紅茶を啜る鬼堂を辰史は恨めしげに睨みつける。が、鬼堂はどこ吹く風と言った風に眸を細めて「辰史君も若いですね」と喉を鳴らして笑った。
「で、どういう感じだったの?」
「ふふふ、気分は遠く離れた恋人に再会してまた別たれる瞬間、といったところですか辰史君」
「ぶっ、別たれるって、一駅しか離れてないじゃない。辰ちゃんちと比奈ちゃんのマンション」
「こう、優しく抱きよせて恥ずかしがる比奈さんにちゅうっと」
「その後は瑠璃也君との追い駆けっこに忙しかったみたいで、僕の存在には気づいてくれなかったんですよ」と、鬼堂。涼しい顔をして一部始終を語ってみせたこの古書店の主人に、辰史は「煩ェ!」と噛み付いた。屈辱と怒りに顔に熱が昇る。確かに、年甲斐もなく往来で所謂二人の世界、というやつを作り上げていたのは自分であるが、それを秋子と鬼堂にからかわれることだけは我慢がならない。
「随分悪趣味じゃねえか」
「お互い様ですよ」
「駄目よ、辰ちゃん。六君に八当たりしちゃ。悪いのは辰ちゃんでしょう?」
食ってかかるも、二人を相手にすれば辰史が不利になるのは必然であったのだが。
それでも、三輪家の天才と自他共に認め認められているというプライドから辰史は負けを認めることができないのである。二人から突かれて、形勢は不利になる一方であったが、辰史はそれでも「俺が悪いんじゃねえよ」とまるで子供が言い訳をするように、そう、言った。
「へえ?」
「比奈が、」
「比奈さんが?」
「可愛いから、悪ィの!てめえみたいに訳の判らん奴には判らないかもしれんがな、俺の比奈は可愛いんだよ。キスして悪いか!」
開き直る様に言って、肩でぜえはあと息をする辰史に鬼堂と秋子は感心したように手をぱちぱちと叩いた。その顔が赤いのは、今は怒りの為ではなく羞恥によるのだろう。これ以上からかわれ、恥を上塗りすれば天よりも高い辰史のプライドは粉々に崩れるに違いなかった。それを辰史本人も判っていたから、
「じゃあな、ケーキは届けたから俺は帰る」
と、身を翻そうとした辰史に、秋子が「辰ちゃん、」と声をかける。
「帰るなら、送っていってあげて」
「ああ?誰をだよ、」
振り返り――辰史は今度こそ完全に凍り付いた。天月比奈が、秋子の座るソファの裏に、座りこんでいたからである。
「ひ、比奈、」
「・・・・・・」
どうやら先に呼ばれていたらしい。二人にはめられたのだ、と気付いて辰史は秋子と鬼堂を睨み付けた。人一人軽く殺せるのではないかと思われる、辰史の視線にも、けれど二人は動じない。何食わぬ顔で、ケーキの箱を開けて中からモンブランを皿へ取り分けている。
「比奈、帰るぞ」
「は、はい」
一先ずは撤退が先である。
そう考えて、比奈の手を引く辰史の背に今度は鬼堂が、
「あ、辰史君。駅前でキスなんてしちゃ駄目ですよ」
「そうそう。誰が見てるか判らないんだから。もっと大人としての自覚を持ちなさい」
「余計なお世話だ!」
叫び返して、逃げるように玄関を出ると辰史は思い切りドアを閉めた。比奈の手を掴んだまま、ずるずるとドアの前に座り込む。――普段は逆の立場であることが多いからか、辰史は意外に繊細だった。
「比奈、」
「えっと、大丈夫ですか?辰史さん、」
「二度と、この家の敷居を跨ぐんじゃねえぞ。絶対に、だ」
「は、はい」
比奈とて、秋子から呼び出されれば応えないわけにはいかなかったのだが――それを言えば本格的に落ち込んでいるようである辰史の傷を更に抉る結果になりそうだったので素直に首を縦に振る。
辰史は、そんな比奈に安心したように立ち上がると、
「さあ、行くか。今日はもう仕事無いんだろう?俺も太郎に店番させてあるから。比奈のマンションに行こうぜ」
そう、いつも通りの傲岸な表情になって比奈の腕をぐい、と引いたのだった。
-了-