俺は逃げる。走って、走る。ただ、ひたすらに。
 夕焼けと宵闇の入り混じった、奇妙な空の下を、必死に走った。“それ”を見てしまったのは全くの不可抗力だった。
 だって、授業を終えた学生が家へと帰る為に駅へと向かうのは当然のことだろう?
 俺の家はキャンパスのある最寄駅から二駅分の場所にあったが、しかし、その距離を歩こうだなんて滅多に思わない。遵って、その光景を見てしまったのは俺が悪いわけではなく、どちらかと言えば相手さんが悪かったのだ。
 はっきり言おう。俺は悪くない。嘘じゃない。
 俺は、いつものように駅前で買ったパンを齧りながら定期を改札に通して、少し混み始めた電車に乗り込むはずだったのだ。――パン屋へ入ろうとしたところで、それを、見さえしなければ。
(止まっちゃ駄目だ、止まっちゃ駄目だ)
 方角は多分、こっちの方向で合っていると、思う。
 こうなったら家まで――もしくは、幻影書房まで走るしかない。高校卒業以来ろくに運動なんてやってない怠惰大学生にとって、それはかなり無理のあるマラソンだったが、そんなことを言っている場合でも無かった。
(助けて太郎ちゃーん!)
 こんな時こそ巻き込みたい親友は、今日に限って店番を頼まれているらしく、いない。
(明日はきっと筋肉痛で動けないだろうなっ)
 もうすでに大分切れてきた息をぜえはあと吐き出しながら、それでも足を止めることのできない俺の顔を一羽の鴉の爪が掠めた。

「ぎゃっ!」

 頬に僅かに痛みが走る。爪で抉られたような痛みではなく、紙で指を切ってしまった時の痛みに近かったが、それにしても痛いものは痛い。

「な、何するんですか!三輪さん!」

 そこで、俺は初めて俺を追いかけてくる相手――蛟堂の店主である三輪辰史を振り返って泣きそうになりながら、叫んだ。
 三輪さんは獲物を狙う蛇のような顔でにぃ、と笑う。多分、舌先とか二つに割れてるんじゃなかろうか、あの人。

「瑠璃也君、良い子だから止ろうな?疲れただろう?」
「い、いやですよ!」

 止まったら多分最後だ。

「何、悪いようにはしねえよ。ただ、記憶をほんのちょっと混濁させる程度で、怪我させたりとかしねえから」
「それが一番怖いんですけど!?」

 やると言ったらやる。この人は加減を知らないから、きっと俺は捕まったが最後今日の午後からの記憶を全て失うことになるのだろう。酷い話だ。


「俺、誰にも言ったりしませんから!」
「そういうの、当てにしないようにしてんだよ。俺は」
「甥っ子の親友を信じてくださいって!」
「金以外は信じられないねェ」
「そもそも三輪さんがあんなところで――」

 “それ”を口にしようとした瞬間に再び頭上から鴉――これは、本物の鴉ではない。多分三輪さんの式だ。――が俺に襲いかかった。素人相手にこんなもん使うなんて本当にどういう教育を受けて育ってきたんだこの人は。
 三輪さん、三輪辰史さんは霊能一家(というのだろうか?ちょっと違うかもしれない)の三輪一族の中でもずば抜けて能力の高い天才だ。天才は99%の努力となんたら〜って言った人間もいるらしいけど、この人の場合、努力なんて1%くらいしかしてなさそうだ。というかしてない。絶対。
 他の兄姉がそれぞれ一分野に特化しているのに比べて、その全てに精通しているというのだから、他の兄姉はさぞやりきれなかったことだろう。
 ――その才能が、金儲けとこんないたいけな大学生虐めにしか使われないだなんて間違っている。

「いい加減観念しやがれ、」
「無理です!」

 三輪さんがこれ以上の攻撃を仕掛けてこないことを祈りながら、俺はスピードを緩めぬまま手前にあった角へと転がり込むように曲がった。
 ここの小道を右に入って、幻影書房へと入ってしまえば俺の勝ちだ。鬼堂さんが庇ってくれるだろう、多分。そんな計算をしながら――駆け込んだ瞬間、俺の顔は引き攣った。

「い、行き止まり……」

 間違えた。道を、間違えた。
(こんな時に何やってんだ、俺は!!)
 後ろを振り返る。ゆらり、とアスファルトに伸びた黒い影を目で辿れば、普段は後ろへ撫でつけている黒髪をばさり、と振り乱した三輪さんの壮絶な、顔。小さい子供とかが見たら恐怖とトラウマで三日三晩眠れなくなるに違いない。俺はもう小さい子供ではなかったが、それでも今夜あたり魘されるだろうな、と思った。

「行き止まりだな、瑠璃也」


 三輪さんがその薄い唇の端を吊り上げて笑う。勝ち誇った笑みだ。いや、しかし勝者というのはこんなに厭らしく笑ったりはしないだろう。笑うことは健康に良いのだと言った人間を俺は殴ってやりたい。どうフィルターをかけて見ても三輪さんの笑顔は健全で健康的なそれとは程遠く、見る者を精神的不安に陥らせるのだ。

「みみみみみ、三輪さん、落ち着いてください、話し合いましょう。ほんと、お願いだから記憶改竄とか洒落になりませんってば、」
「改竄じゃねえよ。少し、消す、だけだ」
「それでも洒落になりませんよ!」

 一歩、二歩。
 近づいてくる三輪さんに俺は後ずさる。だ、誰か!誰か、誰でもいいから、助けてくれ。
 壁に張り付いて必死に助けを請う俺の祈りが神様とやらに通じたのか、俺の耳に聞き覚えのある声が響いた。

「あれ、辰史叔父さんと瑠璃也じゃないか。そんなとこで何してるんですか」
「太郎ちゃん!!」

 た、助かった!!
 三輪さんの隣を駆け抜け、太郎ちゃんの後ろへと隠れれば、三輪さんは露骨に「ちっ」と舌打ちをしてそっぽを向いた。流石に、太郎まで巻き込んで事を大きくするつもりはないらしい。

「何でもねえよ」
「でも、式……」
「運動不足の瑠璃也君と少し遊んでやっただけだ」
「どこの子供の言い訳ですか」

 ハァ、と太郎は溜息を零して「まあいいや」と俺に向き直った。

「で、瑠璃也は何で叔父さんと追いかけっこなんてしてたんだよ」
「それは、」

 太郎の向こう側から、眸を細めた三輪さんが「言ったら殺す」と念を送りつけてくる。頭上の式はまだ解かれていなかったし、俺も寿命を縮めるような真似はしたくないので、

「う、運動不足の解消のために」
「叔父さんの嘘じゃなかったのかよ!?」
「いや、ほら、最近幻影書房のバイトか授業かで、全然運動してないからさ、駅前で三輪さんに会って、それで、」
「へえ。叔父さんがそんな一文の得にもならなそうなことに付き合うなんて疑わしいけどね」

 納得できないのだろう。皮肉るように言う太郎に三輪さんはわざとらしく傷付いたような顔をして、肩を竦めて見せた。

「ひでえな。可愛い甥っ子のお友達の頼みを俺が断れるはず、ねえだろう」

 「でもまあ、俺も疲れたから先帰ってるわ」と、三輪さんがぱちんと指を鳴らした瞬間に空を飛んでいた鴉は一枚の紙切れになって、ひらひらと地面へ舞い落ちる。まるで本の中の陰陽師のようだ。
 それを骨張った指でつまみ上げて懐に仕舞いながら、小道を出ようとした三輪さんは俺の横を通り過ぎる瞬間に低い声でぼそり、と呟いた。

 ――いいか、誰にも言うんじゃねえぞ。特に、本屋の野郎には絶対、だ。

 ちらりと顔を上げれば、有無を言わせぬ瞳が俺を睨みつけている。勿論俺は即座に首を縦に振って頷いた。と、いうか、最初から誰にも言うつもりはないと言っているのに。
 駅前で見かけた光景を思い浮かべて――目にした瞬間は、おや、と興味を抱いたものの、今は恐怖の対象でしかないその記憶を俺は二度と思い出さぬように頭の隅へと追いやった。
 今日の帰り、俺は普通に三輪さんと会って、運動がてら走って帰って来たのだ。うん、何もなかった。俺は何も見ていない。そう、思い込むことにした。




-了-