満月の美しい晩だった。
実に、美しかった。地の底に眠るどのような宝石よりも厳かに、そして明るく輝く月だった――こう言うと、マモン様は、あの金や宝石が何よりも好きな御方は「何を、くだらぬことを」と言われるかもしれぬが、私には本当にあの月以上に美しい宝石などこの地上にも、そして我らが住まう地底にも、君らが集う天上にも無いように思われた。
そんな月夜に少女――あの哀れなジャネットは約束の時間よりほんの少しだけ遅れてきたのだ。
理由か?ジャネットの兄、あの裁判で妹を売った愚かな兄の体調が思わしくなかった為さ。
私はジャネットに訊ねた。「今宵のことは、誰にも口にしてはいないだろうね?」と。ジャネットは言った。「勿論よ。アジター」
全く人間と言う生き物は、我らより余程恐ろしいものだ。あのように幼い少女が笑顔で偽りを口にする。私はジャネットの頬に浮かんだ微かな翳りを見逃す程に目の悪い悪魔ではないし、ジャネットからどこへ出かけるのかを聞いて後をつけてきた彼女の兄に気付かぬ程に鈍くもなかった。
けれど私は黙っていた。
――何故かって?
ジャネットが私との約束を破ったことが、面白くなかった――というのは理由ではないな。私は人間という生き物のことを、少なくとも君ら、下級天使よりはよく知っている。
痛い!槍の先で突かないでくれたまえよ!
全く、これだから君らはいけない。我ら地の底に落とされた者どもの方が余程紳士的というものだ。例えばマモン様は金にならぬことなど一切手を出そうとはしないし、我が主とて気に入らない神の子――ほら、あの、何と言ったか。地上における我らの権利を侵害した、あの男――ああ、イエスだ。あれに対して暴力行為を振るうことをせずに、裁判にて公正な判決を求めたという。アスモデウス様など実に紳士的だ。彼の方は、求められれば人にこの世の神秘さえ教え給う。
何?話が逸れているって?
ああ、判った判った。突くなよ。君らには余談を楽しむ余裕すらないのか。嘆かわしい。
で、どこまで話したかな。そうだ、思い出した。
実のところ私には良い考えが浮かばなかったからさ。もしも私がジャネットに、彼女の兄さんのことを教えてやったとする。しかし好奇心旺盛で純粋なジャネットは――我らに対して、という意味ではないよ。ジャネットは私に対して嘘をついているからね。同じ種族であり血の繋がる兄に対して、という意味さ――誤魔化すでもなく、逆に兄を手招きして呼ぶかもしれない。
ジャネットの兄に私の姿が見えるかどうかは判らなかったが、そうなればもう申し開きの仕様がないだろう?それならば、伏せておいた方が、もしもその後裁判にかけられたとしても、まだジャネットが救われる余地はあると思ったのだ。私は。
二時間近くに渡って、私はジャネットに彼女と同じ名を持つ、あの聖女の話をしてやったよ。君らも知っているだろう。オルレアンの白き処女。ジャネット――ジャンヌ・ダルクの話だ。
私はあの乙女とも知己だった。
「知っているさ。知っているとも。あの白き処女。清らかなる乙女も、お前に唆された所為でその命を落としたのだ。agitate」
――君らは本当に、失礼だな。
私はジャンヌを唆したりなどしなかった。むしろジャンヌを見放したのは、君らが愛し、そして我らが永劫に憎み畏れる御父君ではないか。
何?知った風な口を利くな?
君らよりは知っているさ。私はジャンヌとよく話をしたのだ。私が話しかける以前から、ジャンヌは疑問を抱いていた。何に対してか判るか?目的を達した途端に、もう用済みと言わんばかりにその御声を聞かせてくれなくなった我らが父に対してさ!
そんなジャンヌと、私は偶々出会っただけだ。そうしてほんの少しだけ、いつも大公様や他の仲間、そしてこれまで出会った人間にしてきたように、おしゃべりを楽しんだだけだ。少しでも彼女の気分が紛れれば、と思ってのことだ。
・・・・・・まあ、今はそんなことはどうでも良かろう。
ジャネット――ジャンヌではない。此度火刑に処されたあの哀れな少女の方だ。彼女のその、好奇心の旺盛さ。物判りの良さ、物怖じをしないところなどはジャンヌに良く似ていた。
だから、私は、君の疑うように、ジャネットを陥れようとしたわけではない。むしろ救ってやりたかったのだ。君は知らないだろう?町の広場で木の十字架に掛けられ、今にも殺されんとするジャネットの耳元で、私が「助けてやろうか」と囁いたことを。
ジャネットが首を縦に振りさえすれば、私は彼女を助けてやることができた。何故かって?簡単なことだ。私はあの村でもう仕事を大方のところ終えていた。
私は確かにあの愚かな人間――我が主の言うところの泥人形が好きだが、公私混同は慎むようにしている。だから私がほんの少し、この翼で合図をしさえすれば、私の仕事の成果である呪は瞬く間に黒の病として広がったに違いないのだ。
そうして私にとっては――否、ひ弱で善良な私ではあるが、ジャネットを十字架から降ろしてやるくらいはわけのないことだった。
――ならば、何故ジャネットが死んだのかって?
君は本当に頭が悪いな!
そんなもの、ジャネットが拒んだからに決まっているだろう。彼女は鮮やかに笑ったのだ。まるで、枯れ落ちる前の花のように。瞬きを消す前の、星のように。
――「約束を破った私が悪いのよ。アジター」
ああ、全く嫌になる。私はそんなことを気にしたりはしないのに。本当に嫌になる。そんなところまで、ジャンヌと同じだったのだ。彼女は。
私にしてやれることなど無かった。ただ、ほんの少し微笑して、「では君の魂が安らかなる眠りを得ることができるよう、私の知り合いに頼んでおこう」という下らない約束をしてやることしかできなかったのだ。
これで私の身の潔白は証明されただろう。
血気盛んで愚かな君。善良なる悪魔を捕え、裁くなどという無駄なことをしている暇があるのなら、無実の罪で同族を裁くあの愚かな泥人形に、君らの言う「道」というやつを示してやったらどうだ。
君らはいつも見ているだけだ。選ばれたほんの僅かな人間の前に時折現われて、言葉を与えることしかしない。それでは私と同じだ。私の名と、同じ。
おや、黙りこくってどうした?もう言いたいことはないのか。ならば私は失礼させて貰う。我が主――地獄に住まう誰よりも美しく、虚ろで、淫蕩なあの御方が私の帰りを待っている。
ではな。精々仕事に励み給えよ。
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